第9話 【「ゲームオタク」の夜空】
あの事故の日から、約半月が経ったある日の放課後。
「ただいまー」
三原高校から帰宅した英理が玄関で靴を揃えていると、2階のリビングから和也がひょっこり顔を出した。
「おう、おかえり。あ、英理。今な、凪が上の部屋に来とるぞ。一緒にゲームしに来たと」
「えっ!?」
英理の身体がピクッと強張った。一瞬で体温が跳ね上がる。
(凪さんが……お兄ちゃんの部屋に!?)
英理は慌てて洗面所に駆け込んだ。
鏡の前で前髪を何度も整え、制服のシワを伸ばす、心臓がうるさくて破裂しそうだった。
♢
お盆の上に淹れたての緑茶をふたつ載せ、英理はつま先立ちになるくらい静かに階段を上った。
和也の部屋の前に立ち、深く息を吸い込む。
トントン、と軽くノックしてドアを開ける。
「お茶、持ってきたよ」
茶色い畳の部屋には、ブラウン管テレビの青白い光に照らされた男子二人の背中があった。
英理の声がした瞬間、凪の指先がピタリと止まり、画面の中のキャラクターが沈黙した。
「悪い、やっぱ片手じゃ無理だな」
不器用そうにコントローラーを握っていた凪が、ゆっくりと振り返る。
あの日以来、一度も交わすことのなかった視線が、狭い四畳半の部屋でまっすぐに重なった。
男くさい部屋に、シャンプーの匂いがふっと広がる。
制服姿の英理が立っているだけで、いつもの汚い部屋がまるで別の場所のように見えた。
一方の英理は、パニック寸前だった。
本物の凪が目と鼻の先にいる。
焦るあまり名前もうまく出てこず、口から出たのは最悪のフレーズ。
「あの、あの時の方、ですよね……? まさかお兄ちゃんの、ゲームオタクのっ!?」
「……オタク?」
凪の眉がピクッと跳ねた。
「っ~~~~~!? あ、ちがっ! お、お友達のっ、凪さん…っ!!」
普段お兄ちゃんが「うちのクラスのゲームオタク」と呼んでいた言葉がそのまま滑り落ち、英理は顔面を真っ赤にして両手で口を塞ぐ、完全に自爆した。
和也が横から「おい英理、お前さらっと何言いよっとや!」と爆笑しながら突っ込む。
凪は一瞬ポカンとしたが、肩の力を抜いてフッと口元を緩めた。
「まあ、オタクなのは間違いやないけどな」
「お茶、ありがとな」
「えっ、あ、はいっ!」
「それと……あの時は、急になぎ倒すみたいになって悪かった。怪我、なかったか?」
自分からそう尋ねておきながら、まっすぐに見つめ返してくる英理の大きな瞳に、なぜか、凪は一瞬だけ言葉に詰まった。
「は、はいっ! 凪さんが助けてくださったけん、私は全然大丈夫でっ! あの、凪さんの手…怪我、もうよかとですか……?」
「ああ。これくらい、なんともない」
「……よかった」
凪は照れくさそうに視線を逸らし、右腕をさすった。
ぶっきらぼうで、でもどこかホッとしたような優しい横顔。
英理は胸の奥が痛いほど熱くなった。
♢
凪が帰り、静かになった和也の部屋。
英理は空になった湯呑みを回収しながら、畳に転がった攻略本を片付ける和也の背中に、何気なさを装って声をかけた。
「学校じゃどんな感じと? 凪くんって」
和也の手がピタッと止まった。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて振り返る。
「お前、さっき『オタク』とか言って自爆しとったくせに、まさか凪のことが気になるとかい?」
「っ、ち、違うってば!」
英理は一瞬で耳まで真っ赤にし、お盆を胸に抱えると、逃げるように部屋を飛び出していった。
♢
神之浦家を出た凪は、三原の坂道を下っていた。
冷たい夜風が火照った顔に心地いい。
誰もいない電柱の陰で、凪はぽつんと足を止めた。
そのままガバッと頭を抱え、深々と溜息をつく。
(あんなん、アカンやろ)
何が「アカン」のか、自分でも分からない。
ただ、あの大きな瞳を思い出すたびに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「…オタクって、なんやねん」
誰もいない夜の坂道で、凪は一人、真っ赤になった顔を片手で覆った。




