第85話 【70万円の決意】
「お、おう! ワシ、財布出してくるけん、ちょっと待っときね!」
レジの前で店員さんがにこやかに「長崎のお兄様」である凪に画面を提示する。
「お会計、3点で60万2,800円になります」
「…………は?」
凪は、耳を疑った。「ろ、ろくじゅ……え?」
レジの前で完全にフリーズする。
20代の若手消防士の月給や、命がけの特別救助訓練の苦労が頭をよぎる、
(服3着で60万!? チャリ買えるやん! いや、いや、中古の軽自動車買えるレベルやんけ!!)
隣を見ると、妹を演じる英理がハットの奥から「早くカード出しね、兄ちゃん?」と言わんばかりに、ニヤニヤと意地悪な大人の笑みを浮かべてこちらを見ている。
店員さんの鋭い視線と、愛する彼女(今は妹役)の期待を背負った凪は、震える手で財布からクレジットカードを取り出し、
「こ、これで…お願いします…」
と、まるで全財産を差し出すような覚悟でカードリーダーに差し込んだ。
「よし、次は靴選びやね! 凪くん、行くよ!」
その横で、凪は引き落とされるであろう「60万2,800円」という数字を頭の中から力ずくで消し去ろうと、必死に脳内消しゴムを動かしていた。
(アカン、考えてももう遅い! 済んだことは忘れるんや! なにせ今日は、あのテレビの中のトップ女優『神之浦英理』と、このお洒落な青山で堂々とショッピングデートできとるんやからな!)
そう、もはやこれは「青山グランドツアー」海外旅行に来たようなものだ。
そう割り切った瞬間、凪の脳内に謎の脳内物質が分泌され、テンションが急上昇した。
こんな奇跡のような時間は、間違いなく一生の思い出になる。
「おう、靴でも何でもドンと来いや! 英理、靴もな、英理が本当に行きたい店を選んでくれ! 俺、どこへでもついていくからな!」
「えっ? お、おう、バリ威勢がええね?」
満面の笑みで胸を張る凪に、英理はハットの奥で少しだけ戸惑った。
(さすがに一般の金銭感覚からしたら、服3着で60万は高すぎたよね…。凪くん、消防士として命がけで働いたお給料なのに、うちの見栄のせいで無理させちゃったかも…)
そんな英理の心配を1ミリも知らない凪は、完全に「吹っ切れた男」みゆき通りにはお洒落なカップルたちが幸せそうに肩を並べて歩いている。
(せっかくこんなお洒落な街で、最高の彼女と堂々とデートしとるんや。周りのカップルに負けてられへんわ!)
凪は、すぐ隣を歩くお洒落なカップルが自然に手を繋いでいるのを見つめ。英理の小さくて柔らかい手を上からぎゅっと握りしめた。
「……っ!?」
不意に手を包み込まれ、英理は驚いて小さく声を漏らした。
(あ、凪くん…。金額のこと気にするどころか、周りのカップル真似して張り切っとるんじゃ…)
「もう…急にどうしたんよ、お兄ちゃん」
「兄ちゃん、次の目的地はあそこよ」
英理が繋いだ手を軽く引っ張って見上げたのは、エッジの効いたデザインが並ぶシューズのセレクトフロア。
店内に入ると、ガラスの棚に美術品のように美しい靴たちが並んでいる。
凪は再び「うわ、高そう…」と本能的に身構えたが、今の彼は「吹っ切れた男」。
「おう、どこの靴でも持ってこい! 英理、本当に俺に履かせたいやつを選んでくれ!」
「ふふ、じゃあこれ!」
英理が迷いなく指差したのは、白の上質なレザーと、ライトグレーのスエードが絶妙なバランスで組み合わされた、どこかクラシカルでありながら圧倒的に洗練されたローカットのスニーカー。
「これ、メゾン シャルダンの『ヘリテージ』っていうミリタリートレーナーなんよ。
「く、靴の名前かそれ!」
職人さんが一足ずつバリ丁寧に作っとってね、うちも私服で大好きなシリーズなんよ」
英理はスニーカーを手に取ると、凪の足元に合わせながら、目をキラキラ輝かせた。
「形がバリ綺麗で上品やけん、さっきの墨黒のジャケットとネイビーのスラックスに、これ以上ないくらい完璧に合うんよ!」
店員さんにサイズを出してもらい、凪はさっそくソファーに座ってその白いスニーカーに足を通した。
紐を結び、立ち上がって鏡の前に立ってみると、凪は思わず声を失った。
「…すごいな。スニーカーなのに、なんかめちゃくちゃ上品やわ」
「ほうでしょ! バリ格好いいわ、凪くん!」
「…ねぇ、凪くん。その靴ね、デザインが格好いいだけじゃなくて、もの凄く歩きやすいんよ。やけんね…」
「これで、これからたくさん一緒にお散歩デートしようね?」
「おう、これにするわ。店員さん、これ現物で、このまま履いていくからタグ切ってな!」
「かしこまりました。では、お会計へご案内いたします」
レジへと進み、店員さんがカタカタとタブレットを操作する。
「お会計、、税込で11万3,300円になります」
しかし、今の凪は一味違った。
凪は眉を一つ動かすこともなく、ジャケットの内ポケットからスッとクレジットカードを取り出し。
「一括で」
その口調、その手つき、まさに一連の動作に淀みなし。
まるでエリートビジネスマンかのような、完璧にスマートな大人の男の振る舞い。
「……!」
その横顔を隣で見ていた英理は、驚きと同時に、不覚にもドキンと胸を打ち抜かれていた。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
カードを財布に収め、お洒落なショップのショッパーを片手に提げた凪は、店員さんに軽く会釈をして、堂々と店を出た。
みゆき通りの賑わいの中に戻った瞬間、凪は「ふぅぅぅ…」と、今日一番の深いため息をついて肩の力を抜いた。
「あかん、めちゃくちゃ緊張した! 11万のスニーカーとか、一生大事に履くわ!」
さっきまでのドヤ顔から一転、いつもの素朴な凪に戻った彼を見て、英理はたまらなくなってその腕に抱きついた。
「ふふ、凪くん、さっきバリ格好良かったよ! カード出すとき、ちょっと大人の男の人がやりそうな顔しとった!」
「そ、そうか? 必死やっただけやけど…でも、英理にそう言ってもらえるなら、70万飛んだ甲斐があったわ!」
「もう、お金のことはうちが後で半分…」
「ノンノン、それは男のプライドが許さへん。今日は俺が、あの『神之浦英理』をエスコートしとるんやからな」
英理はもう完全にノックアウトされたように、彼の肩にコツンと頭を預けた。




