第83話 【うちがしっかりエスコート】
ショッピングデート当日。
車を持たない凪は、都内の大通りでタクシーを拾い、和也と英理が暮らすマンションの前へと向かった。
「…あかん、緊張で吐きそうや」
タクシーをマンションの前に待たせ、エントランスの前でそわそわと時計を見る凪。
今日の彼は、一応手持ちの中で一番マシなネイビーのシャツを着ていたが、手のひらは緊張の汗でびっしょりだった。
東京で二人きりのショッピングデートをするなんて、これが初めてのこと。
その時、
「凪くん、お待たせ!」
声をかけてきたのは、大きめのバケットハットを深く被り、マスクと丸メガネを身につけた女性だった。
顔の大部分は隠れており、一見すれば「神之浦英理」だとは誰も気づかない完璧な変装だ。
しかし、凪は彼女の姿を見た瞬間、言葉を失ってその場に硬直してしまった。
今日の英理は、ベージュの洗練されたロングジレに、すっきりとしたシルエットのパンツスタイル。
露出はほとんどないのに、すらりとしたスタイルの良さと、歩くたびにふわりと広がる都会的な香水の香りが、彼女の周りの空気だけを明らかに違った。
学生時代からずっと一緒にいて、それこそ数日前にはおデコ出しのダサい小豆色ジャージ姿を見ていたはずの、あの「英理」。
なのに、今目の前にいるのは、芸能人として何千、何万人もの前に立ち、磨き上げられ、大人の女性として眩いばかりに輝いている、手の届かないスターの姿だった。
「…凪くん? どうしたん、そんなに真顔で固まって」
メガネの奥の、少し悪戯っぽく微笑む綺麗な瞳。
「あ、いや…なんでも、ない。…行こか」
「ふふ、うん!」
凪は声が裏返りそうになるのを必死に抑え、待たせていたタクシーのドアを開けた。
二人でタクシーの後部座席に乗り込み、運転手に「青山までお願いします」と告げる。
車が滑り出すと、狭い車内は一気に英理の香りと、二人の距離の近さで満たされた。
凪は背筋をピンと伸ばし、正面のフロントガラスを凝視したまま、緊張のあまり、膝の上に置いた両手がガチガチに強張っている。
「凪くん、さっきから全然うちの方見んやん。そんなにまっすぐ前見て、これから救助の訓練にでも行くん?」
「ち、違うわ! 誰が今から訓練行くねん!」
「じゃあ何でそんなに緊張しとるんよ。顔、バリ怖いよ?」
「しゃあないやろ!」
凪はついに耐えかねて、声を潜めながらも必死に弁明した。
「英理と青山デートなんてオシャレ過ぎて、横見たら、なんかバリ洗練された都会の女性がおるし、完全に気後れしとんねん!」
凪はそう言って、慌てて窓の外へと視線を逸らす。
横にいるのが高校時代に知り合った「英理」ではなく、TVの中で見る圧倒的な美しさをまとった彼女が、すぐ隣で自分と肩を並べてタクシーに乗っている。
「ふーん…青山の街とお洒落な私に、そんなに緊張しとるんやねぇ?」
英理はクスッと小さく笑った。
「じゃあ、そんなに緊張しとる凪くんのために、うちがしっかりエスコートしてやるけんね」
英理は凪の強張った手を上からぎゅっと握りしめた。
「…っ!?」
完全に彫刻のように硬直してしまった凪を横目に、英理はマスクの下でニンマリと、してやったりな笑顔を浮かべた。




