第82話 【「ダメ?」の一言に撃沈した消防士】
瑞穂が和也の家に来た騒動から数ヶ月、二人は互いに目が回るほど忙しい日々を送っていた。
凪は消防署での特別救助訓練が本格化し、英理は新しい主演映画の撮影がクランクイン。
連絡こそ毎日取り合っているものの、顔を合わせることすらできない日が1ヶ月も続いていた。
そんな中、英理のロケ撮影が都内で急遽早く巻き、次の現場までに30分だけ空き時間ができるという奇跡が起きる。
英理から『今から青山のあのお店で待っとるけんね』とメールが入った。
南青山の路地裏にひっそりと佇む「カフェ・ド・ロンブル(Café )」
表通りの喧騒から完全に切り離された大人の隠れ家的な名店。
平日の昼下がりということもあり、店内は静かで、お忍びの二人にはこれ以上ない空間だった。
店内の奥まった席に滑り込むと、そこには大きめのキャスケット帽を深く被り、黒縁の伊達メガネをかけた英理が、静かにコーヒーカップを傾けていた。
「英理…! ごめん、待たせたか?」
凪が息を切らせて席につくと、英理はパッと顔を上げて、メガネの奥の瞳を嬉しそうに細めた。
「凪くん! ううん、うちも今着いたところ。ふふ、やっと会えたね」
変装していても隠しきれない彼女のオーラと、久しぶりに見る愛しい笑顔に、凪の胸がドキンと跳ね上がる。
向かい合って座り、二人は限られた30分という時間を惜しむように、互いの近況を話し始める。
「撮影、バリ順調なんやけどね。でもやっぱり、凪くんに会えん間のお仕事は、ちょっとだけ寂しかったわ」
「俺もや。訓練中も、英理のポスターとかテレビCM見るたびに、会いたくてしゃあなかった。
今日、あのジャージ姿やなくて、ちゃんと可愛い英理に会えてほんまに嬉しいわ」
「もう、まだあのジャージのこと言いよるん?」
英理は少し照れたようにクスッと笑うと、ふと、凪の服装に目を留めた。
凪が今日着ていたのは、シンプルな黒のTシャツに、少し色あせたチノパン、そしていつものマウンテンパーカー。
英理はコーヒーカップを置くと、頬杖をついて、凪の服をじーっと観察し始めた。
「…ねぇ、凪くん。その格好、この前会った時も同じじゃなかった?」
「え? あ、いや…これ、俺の一番ラクな定番スタイルっていうか、ローテーションが早いやつやな」
英理は呆れたように、でもどこか楽しそうにため息をついた。
「凪くんっていっつも同じような服装ばかりやね。消防士やけん、普段は制服かトレーニングウェアばっかりなんは分かるんやけど、せっかくガタイもええんやけん、もっとお洒落したらバリ格好良くなるのに、もったいないわ」
「いやいや、俺なんか服のセンスないし、何買ってええか分からんねん。
服屋のオシャレな店員さんに話しかけられるだけで緊張してもうて…」
すると、英理はニヤリと悪戯っぽく微笑み、身を乗り出して言った。
「じゃあさ、次の凪くんの休み、うちも奇跡的に丸一日オフなんよ。二人でこっそりショッピングに行かん?」
「えっ、ショッピング!? 英理と?」
「そう。うちが凪くんの服、上から下まで、ぜーーんぶコーディネートしてやるけん! 凪用に似合う格好、うちが一番よく分かっとるけんね」
「英理がコーディネートしてくれるん…?」
凪は想像しただけで、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
そんな贅沢で幸せなデートが待っていると思うと、これまでの疲れが一気に吹き飛ぶようだった。
「英理がコーディネートしてくれるん…?」
凪は想像しただけで胸が高鳴りかけたが、次の瞬間、ハッと我に返った。
(待て…国民的女優の英理と、休日の昼間に買い物…!?)
普段の密会だって、こうやって人目の少ない路地裏の喫茶店で短時間会うのが限界。
もし服屋で英理だとバレて騒ぎにでもなれば、彼女の女優生命に関わるスキャンダルになってしまう。
彼氏として彼女を守らなければならない責任感が、凪の胸の高鳴りにストッパーをかけた。
「…いや、やっぱりアカン。気持ちはめちゃくちゃ嬉しいけど、やっぱりアカンわ」
「えっ…なんで?」
急にトーンを落とした凪に、英理は拍子抜する。
凪は英理の目を見つめ、真剣な面持ちで言った。
「英理やってバレたら、写真撮られてニュースになって、大変なことになる。
俺はええけど、英理を守らなアカンから…行きたいけど、我慢するわ」
「なーんだ、そんなこと? 凪くん、うちの『隠密能力』を甘く見てもらっちゃ困るわ」
「隠密能力…?」
「うち、変装のプロやけんね? 今日みたいな帽子とメガネだけやなくて、次の休みは誰がどう見ても『神之浦英理』って絶対に気づかんレベルの完璧な変装をしていくけん!」
英理は胸を張って、自信満々に言った。
「メイクも服の雰囲気も全部変えて、髪型もガラッと変える。マネージャーさんだって目の前を通っても気づかんくらいの『別人』になって行くけん、絶対大丈夫!」
「マジで…? ほんまに大丈夫なんか?」
「絶対大丈夫! それにね、凪くんと普通に東京でお買い物デートするの、うちの夢だったんよ。…ダメ?」
上目遣いでそう言われ、語尾に「ダメ?」なんて添えられたら、凪に拒否権など残されているはずもなかった。
「…っ、そんな顔されたら、断れるわけないやんか」
凪は降参するように両手を上げる。
二人が声を殺して笑い合っていると、英理の携帯が静かに震えた。
「あ…もう時間やね。楽しい時間は、ほんまにあっという間やわ」
英理は名残惜しそうに帽子を深く被り直すと、席を立ち際、凪の耳元でそっと囁いた。
「次の休み、めちゃくちゃ格好いい凪くんになるの、期待しとるけんね。お仕事、頑張って」
「おう、英理も撮影頑張れよ」
わずか30分、
しかし、残されたコーヒーの香りと、次の「お買い物デート」という最高の約束は、凪の心を満たすのに十分すぎるほどだった。




