第77話 【じゃあ、今から…する?】
しばらく月日がたったある日の深夜。
撮影が予定より少し早く終わった英理は、ソファに並んで座り、コンビニで買ったアイスを二人で分け合って食べる。
それが、今の二人にとっての何よりの贅沢だった。
「あー、冷たくて美味しい! 今日の撮影、すっごい緊張するシーンやったけん、体に染みるわぁ…」
英理はアイスを口に運びながら、ふにゃりと柔らかい笑顔を見せる。
テレビで見せる完璧な笑顔ではなく、凪の前だけで見せる、無防備で愛らしい素の表情だった。
「そう言えばね、凪くん。お兄ちゃん、最近大学で彼女ができたみたいなんよ」
「えっ、マジで!? 和也に彼女ぉ?」
「うん。今もその彼女と会っとるらしくてね、今日は遅くなるみたい」
英理がクスッと笑うと、凪はスプーンを置き、どこか含みのある目つきで英理をジロリと見つめる。
急に真顔になった凪に、英理は首を傾ける。
「…なぁ、英理」
「ん? なに?」
「…今週のドラマの予告観たで。
またえらい体張った…ラブシーンしとったなぁ…?」
凪の声が、明らかに低く、嫉妬を孕んで揺れていた。
英理の肩が跳ねた。
「…まさか、キ…キスとかしとらんやろ…?」
英理は一瞬、ハッと息をのむと、そのまま不自然に口を噤んだ。
気まずそうに視線を泳がせ、アイスのカップをじっと見つめている。
返答がない。
「………え?」
凪の時が止まり。
リビングの空気までがピキッと凍りつく。
「え……英理……? 今の沈黙、なんや……?」
「し……仕事やから!」
英理は真っ赤になって早口で言い訳を叩きつけた。
「し、仕事やけんね!? 演出やし、画面の角度とか色々あって…!」
「え…英理…俺とだって、まだキスしてへんのに…っ」
凪は胸を抑え、今にも泣き出しそうな子犬のような目で英理を見つめる。
「俺とまだやのに…仕事とはいえ、他の男と先に…?」
「ち、違うと! あれは演技! 撮影! 凪くんとは全然別物やもん!」
必死に手を振る英理だったが…
英理は顔を真っ赤に染めながら、意を決して凪の服の裾をキュッと引っ張った。
「…じゃあ、今から…する?」
「…え?」
凪がポカンと間抜けな声を上げた。
英理は上目遣いに凪を見つめ、恥ずかしそうに消え入るような声で囁いた。
「…凪くんと、まだしとらんかったけん…。今、する…」
その破壊力抜群のおねだりに、凪の心臓が跳ね上がった。
耳まで真っ赤にした凪は、ゴクリと唾を飲み込む。
「英理…お前、そんなん反則やろ…」
♢
ふたりは吸い寄せられるようにじわじわと顔を近づける。
二人の吐息が触れ合うほどの距離。
英理が静かに目を閉じ、凪が愛おしそうにその頬に手を添え——。
その寸前。
ガチャン! バタバタバタッ!!
突然、玄関のドアが乱暴に開閉する音が響き、血相を変えた和也がリビングに飛び込んできた。
その顔は完全に引きつっており、額には大量の汗がにじんでいる。
「…っ!?」
間一髪で飛び退いたふたり。
英理は顔を真っ赤にしてソファの端へ吹き飛び、凪は「うおっ!?」と情けない声を上げて床に転がった。
「英理!! 大変や、えらいことになった!!」
「お、お兄ちゃん!? どうしたんと、そんなに慌てて」
和也は二人の怪しい空気に気づく余裕すらなく、リビングのドアを背中でピシャリと閉め、声を潜めながら早口でまくし立てた。




