第76話 【おめでとう、英理】
あの冬の夜、互いの涙で誓い合った覚擁から数ヶ月。
季節は巡り、初夏が訪れていた。
冬の悔しさを血肉に変えるように、英理は泥臭くレッスンに打ち込み続けた。
何度も壁にぶち当たりながらも、その瞳から光が消えることはなかった。
そして、その努力が結実する瞬間は、思いがけない形でやってくる。
大手飲料メーカーが手掛ける、夏の新作スポーツドリンクのCMオーディション。
並み居る有名モデルや若手女優たちがひしめく中で、カメラの前に立った英理は異彩を放っていた。
汗を拭いながら見せたのは、どこか発光しているかのように透き通った圧倒的な透明感。
本番のカットがかかった瞬間、雰囲気が一変する。
静かにボトルを傾け、カメラを見つめた英理の瞳には、あの冬の苦汁を舐めた者だけが宿せる、射抜くような強い眼差しがあった。
「あの子だ」
監督のその一言で、英理の運命のギアが一気に高速で回転し始める。
そのCMが全国で放映されると同時に、世間は騒然となった。
太陽の光を浴びて走る英理の姿、圧倒的な透明感と吸い込まれそうな強い瞳。
「あの青い服の女の子は誰?」
「神レベルの透明感」と、ネットや街中で一気に話題が爆発した。
そして日本中が共有するアイコン「神之浦英理」へと変貌を遂げた瞬間だった。
♢
その放送が始まった日の夜。
凪はアパートで一人、テレビの画面を見つめていた。
眩しい光の中で、弾ける水飛沫と共に笑う彼女。その姿はあまりにも美しく、圧倒的で、そして―。
「…おめでとう、英理」
凪は静かに呟いた。
画面の中の彼女は、もう自分だけが知っている「不器用な少女」ではなくなっていた。
彼女が放つ光が強くなればなるほど、その輝きは遠く、手の届かない場所へと昇っていってしまう。
そんな、抗いようのない喪失の予感が、凪の胸を締め付けていた。
『すごく、綺麗だと思うよ』
彼女が輝けば輝くほど、自分はさらに深く、街の闇と沈黙の中に身を置かなければならない。彼女を「守る」ということは、いつか自分という存在を彼女の人生から完全に消すことと同義になるのではないか。
凪は、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。
無数の光の粒の中に、彼女を飲み込んでいく巨大な未来の渦が見えるようだった。
♢
駅の巨大ポスターや街頭ビジョンに、英理の大きな顔が掲出され出す。
井の頭公園で凪が危惧していた「堂々と歩けなくなる日」は、思いのほか早くやってきた。
その後、オファーは殺到し、英理のスケジュールは瞬く間に埋まっていった。




