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凪の坂道  作者: 凪葉
第2章 東京編

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第75話 【激情の冬 ― 剥き出しの絆】

秋の井の頭公園で、凪はそう言って笑っていた。


 互いの夢と覚悟を確かめ合い、どれだけ離れていても輝いてみせると約束した、あの夕暮れ。


しかし、現実は甘くはなかった。

テレビの中で笑うどころか、その画面の向こう側にすら辿り着けない焦燥感が、容赦なく二人を追い詰めていく。



2009年、冬。

深夜、凪のアパートのドアを叩く音は、まるで悲鳴のようだった。


 鍵を開けるなり、英理は雪崩れ込むように部屋に入り、着ていたコートを床に叩きつけた。


「もう嫌! なんなんあいつら! うちの何がわかるって言うとよ!」


 撮影現場で浴びせられた「芝居が空っぽだ」という言葉。

けれど、彼女を本当に追い詰めていたのは、華やかな世界の裏側に潜む、もっとどろりとした闇だった。


「…仕事が欲しいなら、あそこの社長と食事してこいって。

…なんで? 演技が上手くなりたくてここに来たのに、なんでそんなことまでしなきゃいけないんと! 枕営業まがいのことまで求められて、断ったら次のオーディションから外される…。

凪くん、これが、うちが憧れた世界なん?」


 英理の瞳には、行き場のない激しい怒りと、穢されたことへの嫌悪が炎のように燃え盛っている。


「一生懸命やっとるよ! 泥水すする覚悟でやっとる! でも、人格まで踏みにじられて…なんなん、東京って。こんなに汚い場所だったんと!?」


「英理、落ち着けって。そんな奴らの言うこと…」


 凪がなだめようと手を伸ばしかけると、英理はそれを烈しく振り払った。


「落ち着けるわけないやろ! 凪くに何がわかるんと! 消防士は、目の前の人を助ければそれが『正解』やろ? でも、うちは……

正解がどこにもない場所で、毎日毎日、汚い大人たちに値踏みされとるんよ! 凪くんみたいに、強くて正しい場所におる人には、この反吐が出るような惨めさは一生わからん!」


「…なんやと?」


 凪の顔からも余裕が消えた。


 なだめようとする不器用な言葉が、逆に英理を逆撫でしているもどかしさ。


「俺だって、楽にやっとるわけやない! 現場で人間の汚い部分も、救えなかった命も見てる。

…でもな、お前を守ろうと思ってここにいる俺まで否定するんか? お前を汚そうとする奴らがいるなら、俺がそいつらを全員…!」


「…できるわけないやん! 凪くんがそいつらを殴ったら、凪くんの仕事も終わるとよ!? うちのせいで凪くんまで壊れるの見たくないんよ!」


 英理は壁に背中を預け、崩れ落ちるように座り込んだ。


「…長崎に、帰りたい。…あの日、坂道で凪くんが助けてくれんかったら、こんなに苦しい思いも、こんな汚いものを見ることもなかったのに…!」


 その言葉に、凪の心臓が鋭く痛む。

自分が彼女をこの世界に繋ぎ止めてしまったのではないかという、深い後悔。


凪は、震える手で英理の肩を掴もうとしたが、触れることさえ躊躇うほど、二人の間には鋭い火花が散っていた。


「…後悔、しとるんか」


 凪の声は、怒りと悲しみで掠れていた。


「…俺もや。お前をこんな場所に連れてきたことが正解やったんか、毎日自問自答しとる。

…でもな、英理。

俺にはお前を励ます気の利いた言葉なんて一つも出てこん。ただ、悔しいだけや。

お前がそんなに汚い世界で独りで戦ってるのに、何もできん自分が、ほんま悔しいや!」


 凪の瞳に、溢れそうな涙が溜まる。


怒りに震えながらも、救えないもどかしさに泣いている。


その剥き出しの感情を見て、英理の激しい怒りが、一気に堰を切ったような嗚咽へと変わった。


「…凪くん…ごめん…凪くんが悪いわけじゃないのに…っ」


「…わかっとる。…わかっとるよ」


 凪は、逃げるように泣く英理を、今度は力任せに抱き寄せた。


上手く言えない、上手く救えない。二人の間に横たわる、都会の暗闇と、裏社会の歪み。


「…凪くん、ごめん。…さっきは、あんな酷いこと言って」


 英理が俯きながら消え入るような声で謝ると、凪は少し照れくさそうに、けれど落ち着いたトーンで首を振った。


「…ええよ。俺も熱くなってしもたし。

和也にバレたら、また首絞められるわ。『俺の妹を泣かすな』ってな」


 凪の不器用な冗談に、英理は少しだけ鼻をすすって微笑んだ。



その夜、英理は帰る気力が湧かず、凪の勧めで彼のアパートに泊まることになった。

狭いワンルーム。凪は床に毛布を敷いて寝ると言い張り、英理を自分のベッドに横たわらせた。


「…凪くん」


「なんや」


「…お母さんと話したんよ。


『あんたはうちの娘やけん、そんなヤワじゃない』って怒られた」


「おばさんらしいな。俺も、そう思うよ」


 暗闇の中、凪の気配がすぐそばにある。

それだけで、現場で削り取られた英理の心が、ゆっくりと修復されていく。


「…凪くん、うちね、もう一回だけ、明日戦ってくる。汚い大人たちも、うちを否定する人たちも、全部うちの『力』にしてやるよ」


「おう。それでええ。お前が壊れそうになったら、またここに来ればええ。ここは、東京で唯一、お前が『英理』に戻れる場所やから」


凪の少し眠たそうな、けれど確かな決意がこもった声。


英理はその声に包まれながら、久しぶりに深い眠りへと落ちていった。



 翌朝。凪がまだ寝ている間に、英理は静かに部屋を出る。


鏡に映った自分の顔は、昨日までとは違っていた。怒りも、悲しみも、裏社会の闇への嫌悪も、すべてを飲み込んで糧にするような、鋭くも透明な表情。


彼女は凪の机の上に一枚のメモを残してた。


『行ってきます。一番輝いてくるね』


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