第75話 【激情の冬 ― 剥き出しの絆】
秋の井の頭公園で、凪はそう言って笑っていた。
互いの夢と覚悟を確かめ合い、どれだけ離れていても輝いてみせると約束した、あの夕暮れ。
しかし、現実は甘くはなかった。
テレビの中で笑うどころか、その画面の向こう側にすら辿り着けない焦燥感が、容赦なく二人を追い詰めていく。
♢
2009年、冬。
深夜、凪のアパートのドアを叩く音は、まるで悲鳴のようだった。
鍵を開けるなり、英理は雪崩れ込むように部屋に入り、着ていたコートを床に叩きつけた。
「もう嫌! なんなんあいつら! うちの何がわかるって言うとよ!」
撮影現場で浴びせられた「芝居が空っぽだ」という言葉。
けれど、彼女を本当に追い詰めていたのは、華やかな世界の裏側に潜む、もっとどろりとした闇だった。
「…仕事が欲しいなら、あそこの社長と食事してこいって。
…なんで? 演技が上手くなりたくてここに来たのに、なんでそんなことまでしなきゃいけないんと! 枕営業まがいのことまで求められて、断ったら次のオーディションから外される…。
凪くん、これが、うちが憧れた世界なん?」
英理の瞳には、行き場のない激しい怒りと、穢されたことへの嫌悪が炎のように燃え盛っている。
「一生懸命やっとるよ! 泥水すする覚悟でやっとる! でも、人格まで踏みにじられて…なんなん、東京って。こんなに汚い場所だったんと!?」
「英理、落ち着けって。そんな奴らの言うこと…」
凪がなだめようと手を伸ばしかけると、英理はそれを烈しく振り払った。
「落ち着けるわけないやろ! 凪くに何がわかるんと! 消防士は、目の前の人を助ければそれが『正解』やろ? でも、うちは……
正解がどこにもない場所で、毎日毎日、汚い大人たちに値踏みされとるんよ! 凪くんみたいに、強くて正しい場所におる人には、この反吐が出るような惨めさは一生わからん!」
「…なんやと?」
凪の顔からも余裕が消えた。
なだめようとする不器用な言葉が、逆に英理を逆撫でしているもどかしさ。
「俺だって、楽にやっとるわけやない! 現場で人間の汚い部分も、救えなかった命も見てる。
…でもな、お前を守ろうと思ってここにいる俺まで否定するんか? お前を汚そうとする奴らがいるなら、俺がそいつらを全員…!」
「…できるわけないやん! 凪くんがそいつらを殴ったら、凪くんの仕事も終わるとよ!? うちのせいで凪くんまで壊れるの見たくないんよ!」
英理は壁に背中を預け、崩れ落ちるように座り込んだ。
「…長崎に、帰りたい。…あの日、坂道で凪くんが助けてくれんかったら、こんなに苦しい思いも、こんな汚いものを見ることもなかったのに…!」
その言葉に、凪の心臓が鋭く痛む。
自分が彼女をこの世界に繋ぎ止めてしまったのではないかという、深い後悔。
凪は、震える手で英理の肩を掴もうとしたが、触れることさえ躊躇うほど、二人の間には鋭い火花が散っていた。
「…後悔、しとるんか」
凪の声は、怒りと悲しみで掠れていた。
「…俺もや。お前をこんな場所に連れてきたことが正解やったんか、毎日自問自答しとる。
…でもな、英理。
俺にはお前を励ます気の利いた言葉なんて一つも出てこん。ただ、悔しいだけや。
お前がそんなに汚い世界で独りで戦ってるのに、何もできん自分が、ほんま悔しいや!」
凪の瞳に、溢れそうな涙が溜まる。
怒りに震えながらも、救えないもどかしさに泣いている。
その剥き出しの感情を見て、英理の激しい怒りが、一気に堰を切ったような嗚咽へと変わった。
「…凪くん…ごめん…凪くんが悪いわけじゃないのに…っ」
「…わかっとる。…わかっとるよ」
凪は、逃げるように泣く英理を、今度は力任せに抱き寄せた。
上手く言えない、上手く救えない。二人の間に横たわる、都会の暗闇と、裏社会の歪み。
「…凪くん、ごめん。…さっきは、あんな酷いこと言って」
英理が俯きながら消え入るような声で謝ると、凪は少し照れくさそうに、けれど落ち着いたトーンで首を振った。
「…ええよ。俺も熱くなってしもたし。
和也にバレたら、また首絞められるわ。『俺の妹を泣かすな』ってな」
凪の不器用な冗談に、英理は少しだけ鼻をすすって微笑んだ。
♢
その夜、英理は帰る気力が湧かず、凪の勧めで彼のアパートに泊まることになった。
狭いワンルーム。凪は床に毛布を敷いて寝ると言い張り、英理を自分のベッドに横たわらせた。
「…凪くん」
「なんや」
「…お母さんと話したんよ。
『あんたはうちの娘やけん、そんなヤワじゃない』って怒られた」
「おばさんらしいな。俺も、そう思うよ」
暗闇の中、凪の気配がすぐそばにある。
それだけで、現場で削り取られた英理の心が、ゆっくりと修復されていく。
「…凪くん、うちね、もう一回だけ、明日戦ってくる。汚い大人たちも、うちを否定する人たちも、全部うちの『力』にしてやるよ」
「おう。それでええ。お前が壊れそうになったら、またここに来ればええ。ここは、東京で唯一、お前が『英理』に戻れる場所やから」
凪の少し眠たそうな、けれど確かな決意がこもった声。
英理はその声に包まれながら、久しぶりに深い眠りへと落ちていった。
♢
翌朝。凪がまだ寝ている間に、英理は静かに部屋を出る。
鏡に映った自分の顔は、昨日までとは違っていた。怒りも、悲しみも、裏社会の闇への嫌悪も、すべてを飲み込んで糧にするような、鋭くも透明な表情。
彼女は凪の机の上に一枚のメモを残してた。
『行ってきます。一番輝いてくるね』




