第70話 【明日の約束】
午後の柔らかな日差しが、青山の路地裏に佇む隠れ家的な喫茶店『ティーハウス』
店内は天井から吊るされた無数のドライフラワーや怪しく光る浮遊球体、見たこともない奇妙な熱帯植物、
その一角で、英理とナオは背中を丸め、縮こまっていた。
「…ねえ、ナオ。うち、このハーブティーの『自家製コンフィチュール』ってやつ、どうやって飲めばいいかわからん」
英理は大きめのサングラスをすっと鼻頭まで下げ、小声で囁いた。
両手で恐る恐る持ったティーカップは、緊張でかすかにカチカチと音を立てている。
「声が大きいって、英理! 周りのオシャレな人たちに見られるやん…。
うちなんか、メニューの横文字が一個も読めんくて、店員さんに『これと同じので』って指さして頼んだアイスカフェオレ、ストローで混ぜる音すら立てられんっちゃけど…」
ナオも分厚い大学の教科書を盾にするように抱え込み、テーブルの端で限界まで小さくなっていた。
この春から東京の大学に進学したナオとこうして会えたのは心強かったが、二人は「青山のオシャレカフェ」の雰囲気に完全に呑み込まれながら会話していた。
♢
「わかる…うちも青山の街歩くだけで足が震えたもん。
すれ違う女の子たち全員モデルに見えるし、長崎から出てきたばかりの自分が場違いすぎてツラい…」
ナオが深々とため息をつくと、英理も小さく息を吐き、怪しげな花瓶の向こう側の景色に視線を落とした。
「うちもね…毎日そんな感じよ。芸能界に入ってから、毎日が戦場みたいでさ。
オーディションに行けば周りは自信に満ちあふれた子たちばっかり。
長崎でテレビ見とった時の華やかさの裏側って、こんなに息が詰まる場所だったんだって驚くよ」
「英理…やっぱり厳しいっちゃね。うちが大学でオドオドしとるのとは、次元が違う厳しさやね…」
「ううん、そんなことない。
ナオだって慣れん東京で大学生活始めるの大変やったやろ? こうやって長崎の友達が近くにおってくれて、一緒に『東京すごいね』って縮こまれるだけで、うち本当救われとるっちゃもん」
「なにそれ。『一緒に縮こまれる』って」
「だってほんとやもん。」
「…はぁ、なんか緊張ほぐれたわ」
「ね。東京のオシャレカフェも、二人でおれば怖くないね」…
♢
「私もね、ナオみたいにキャンパスライフ送ってみたかったわ。
講義の後にみんなで『どこ行くー?』って盛り上がったり、学食で適当にパスタ食べて、『課題が大変』とか愚痴り合ったり。そういう、何でもない時間が今すごく贅沢に感じるんよ」
「うわ、それは分かるわ! 意外と自由よ? 昨日はサークルの子らと渋谷まで映画見に行って、そのあと夜遅くまでファミレスで恋バナしとったんよ」
ナオが楽しそうに笑い、英理も釣られて笑った。
「…まあ、恋バナ言っても最近はロクな話じゃないっちゃけどね。こないだ言ったやろ? 長門くんと別れたと」
「ああ…そういえば言いよったね。どうなん? あれから」
英理が心配そうに問いかけると、ナオは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「結局ね、遠距離っていうのが一番デカかったと。こっち来てからも何回か連絡は取っとったっちゃけど、向こうも大学で新しい生活が始まって…どうやら好きな人ができたみたい。
結局、物理的な距離と心の距離は、比例してしまうとかね」
ナオは少し寂しげに笑ったけれど、すぐに前を向いて「でも!」と声を張り上げた。
「もう吹っ切れたばい! 東京には素敵な人いっぱいおるし、私もこれから新しい出会い、頑張って探してみようかなって思っとるっちゃんね。英理こそ、今はどうなん? 恋とかする余裕あると?」
「…私はね、大丈夫よ。こっちでも変わらず凪くんがおるしね」
「あぁ、そうやった! 凪くん、今こっちで消防士しとるっちゃもんね」
「凪くん、消防士として東京の街守っとるっちゃもんね。なんか、すごいね。英理の自慢の彼氏やん」
「もう、からかわんでよ。
…でも、まあ、そうかもね」
♢
ナオと別れて帰宅した英理は、自宅マンションのソファに深く体を沈めていた。
英理は携帯電話をパカッと開き、「凪」の名前を選んでメールの作成画面を開いた。
【件名:お疲れ様!】
今、ナオと久しぶりに会ってお茶してきたよ。
そうそう、ナオね、長門くんと別れたと。
遠距離ってやっぱり難しいとかね…。
あんまり無理して、怪我せんようにね。
また、二人でゆっくり会えるの待っとるよ。
送信ボタンを押し、「送信完了」の文字が表示されたのを確認して携帯を閉じる。
夜も更けた頃、テーブルの上で携帯がブブッと短く震え、着信ランプが点滅した。英理は携帯を開き、届いたメールを開く。
【件名:Re: お疲れ様!】
ナオか。俺も久しぶりに話したいな。
そうか、長門くんと別れたとか…あいついいやつやったとにね。残念やな。
…英理。
明日の晩、時間作れそう。
会いたい。
マンションで一緒に晩飯食べん?
英理は、同じ部屋でソファの反対側に座り、だらりとくつろいでいる兄の和也をちらりと見た。
英理は指先でボタンをカチカチと押し、少しだけ悪戯っぽく返信を打った。
【件名:Re: Re: お疲れ様!】
いいよ、お疲れ様!
明日、和也もおるけど大丈夫?
晩御飯、カレーにせん?
和也、最近ヒマそうやし、凪くんが来るなら
「お兄ちゃん、腕振るってよ!」
って言ってカレー作らせるけん。
【件名:Re: Re: Re: お疲れ様!】
え、カレーか。
…いや、英理の手作りカレーが食べたいっちゃけど
英理は和也の方を向き、呆れた顔で携帯の画面を見せた。
「『英理の手作りカレーがいい』やってさ。」
和也は小さな画面を覗き込み、「はあ? 贅沢なやつやな」と苦笑いしながらも、呆れたように肩をすくめた。
(…何も知らんって恐ろしいな。あいつ、死ぬ気か?)
「あいつ、お前のメシの恐ろしさをまだ知らんからそんな呑気なこと言えるんやぞ。命拾いしたと思っておとなしく俺の食っとけって話や」
「ちょっと! なによそれ、失礼やね!」
英理がポカポカと肩を叩いてくるのを軽やかにかわしながら、和也はフッと口元を緩めた。
「分かったよ、俺が作るけん。…」
英理は和也のその言葉に安堵し、再びボタンを叩く。
件名:Re: Re: Re: Re: お疲れ様!
凪くん、私の手作りはまだダメー!
うち、これから撮影で忙しいんよ。
明日楽しみにしてるね。
英理は「よし」と呟いてメールを送信すると、パタンと携帯を閉じた




