第69話【 雑誌の片隅に刻まれた名前】
マンションのリビングで、和也と凪が見守る中、英理はテーブルの上に置かれた一冊の雑誌を震える手で開く。
それは、彼女が「神之浦英理」という名で、初めて世の中に形として現れた瞬間だった。
ここから本格的に活動をスタートさせ、その後の飛躍へと繋がる大切な助走期間。
掲載されたのは、新人たちが顔を揃えるグラビアの小さなページ。
「…あ、あった。これだ…」
指し示した先には、初夏の海で、懸命に笑顔を浮かべて立っている自分がいた。
「神之浦英理」という五文字が静かに印字されている。
「…なんだよこれ、緊張しすぎだろ。顔が固まってんじゃん」
和也が茶化すように笑いながらも、その指先は慎重にページをめくっていく。
凪は傍らで、一言も発さず、ただじっとその写真を見つめている。
「…凪くん、どうかな。やっぱり、変かな」
英理が不安げに尋ねると、凪はゆっくりと顔を上げ、穏やかな、けれど力強い眼差しで彼女を見つめた。
「…変なわけないやろ。これ、長崎の海を思い出して笑ったって言ってたやつやんな? ちゃんと、英理らしい目をしてるよ」
そう言って、自分のカバンの中から、同じ雑誌のもう一冊を取り出した。
「練習中の標準語で言うなら、『すごく、綺麗だと思うよ』」
不器用な彼の言葉に、英理の頬がふわりと熱くなった。
今の彼女は、まだ誰もが知る存在ではない。誌面の片隅に載った、小さな一枚。
けれど、故郷を離れ、厳しい東京の荒波の中で初めて勝ち取った「自分の居場所」がそこにあった。
「…うち、ここから始まるんよね」
「…ああ。ここが、スタートラインやな」
凪の落ち着いた声が、彼女の新しい覚悟を静かに後押しする。




