第68話 【笑う練習と、ほんとうの笑顔】
千葉の海岸沿いにあるスタジオ。
「はい、神之浦さん。もっと肩の力抜いて! 体が固いよ!」
カメラマンの鋭い声が響く。
初めて袖を通した、眩しいほどに鮮やかなビキニ。
鏡の中で見る自分は、どこか自分ではない他人のようで、英理は絶えず襲ってくる羞恥心と戦っていた。
スタッフたちの事務的な視線、レフ板が反射する刺すような光、
「新人なんだから、もっと元気出してよ。笑って!」
アシスタントが小走りにやってきて、英理の髪に無造作にスプレーを吹きかけ、肌にテカリを出すためのオイルを塗り込んでいく。
見知らぬ人間に体を触れられることへの抵抗感。けれど、それを顔に出すことは許されない。
現場では誰も助けてはくれない。
(うちだけ、逃げるわけにはいかんとよ)
英理は一度だけ強く目を閉じ、長崎の坂道で、凪の手が自分をしっかりと受け止めてくれたときの温もりを思い出しながら。
次に目を開けたとき、その瞳には、怯えを押し殺したプロとしての微かな「光」が宿っていた。
「…すみません。もう一度、お願いします」
長崎弁を封印し、ぎこちない標準語。
ファインダー越しに彼女を覗いていたカメラマンの手が、一瞬止まった。
「…ほう。いい目をするようになったじゃないか」
重く鋭いシャッター音が、冷たい浜辺に絶え間なく響き渡る。
♢
「…お疲れ様。顔、真っ赤やん」
凪が立ち上がり、疲れ切った英理の様子を見て、少し心配そうに声をかけた。
英理はバッグを置くのももどかしく、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「もう、無理…。凪くん、笑うのってあんなに大変だったっけ」
「まあ、座れよ。お疲れさん」
和也がぶっきらぼうにお茶を差し出し、三人の静かな夕食が始まった。
「カメラが、すごく近くて…。知らない人にずっと体を見られてるみたいで、どうしていいか分からんくなった。うち、向いてないかもしれん」
弱音を吐き出す英理に、凪は無理に励ますようなことはせず、自分の弁当の唐揚げを一つ、英理の容器に分けながら落ち着いたトーンで言う。
「…大変やったな。でも、初めての場所で緊張するのは当たり前やし、それは英理が一生懸命やった証拠やと思うよ」
「一生懸命…。でも、顔が引きつってばっかりだったよ」
「それでも、現場に行っただけでもすごいよ。俺なんて、こっちのスーパーのレジでさえ、まだちょっと緊張するもん。…あ、今の標準語、完璧やった?」
英理は一瞬目を丸くしたあと、思わず吹き出した。
「ちょっと待って! 凪くん、この前『初めてコンビニ行った時もぜんぜん緊張せんでクールに対応できた』ってドヤ顔で自慢しとったやん! なんでスーパーのレジで緊張しとるとよ!」
「うっ…そ、それはそれ、これはこれや! コンビニはサシの勝負やけど、スーパーは後ろに人が並ぶやろ!? あの背後からの『早くしろ』っていう無言の圧が…」
「完全に後付けやん! 結局、最初から緊張しとったっちゃろ!」
英理の容赦ないツッコミに、凪は「…ノーコメントや」と気まずそうにお茶を飲んで目をそらした。
そのわかりやすい姿に、和也まで「お前、相変わらずかっこつかんやつだな」と鼻で笑っている。
「ふふっ…もう、標準語以前の問題やし。なまりも全然抜けてなかったよ」
「そっか、やっぱりバレるか。
まあ、東京の生活はこういう小さなことの積み重ねやな」
「あ、強引にごまかした!」
「うるさいな、ほら、冷める前に食べ。しっかり食べて、今日は早く休み」
「うん。ありがとう」
「でも、最後の一枚は、少しだけ笑えた気がするんだ。長崎の海を思い出して」
「そっか。それなら、きっといい写真になってるよ。
英理が頑張ってるのは、俺が一番よく分かってるから。無理はしすぎんようにな」




