第67話 【約束の続きをはじめよう】
英理 東京の第一歩
2008年、春。
東京の溢れかえる喧騒は、長崎の静かな夜しか知らない英理にとって、どこか眩しすぎて底なしの不安を感じさせるものだった。
世田谷区にあるマンションの一室。
積み上げられたダンボールのてっぺんには、大切そうに置かれた一通の封筒がある。
ナオに背中を押されて掴み取った、芸能事務所からのレッスン通知とオーディションの案内。
明日から、夢への第一歩が始まる。
「自分なんかがこの街でやっていけるのだろうか」
という怖さが、胸の奥で渦巻いていた。
「お兄ちゃん、部屋、片付く気がせんね」
「しょうがないだろ、さっき着いたばっかりなんだから」
畳まれた服の山を前に、兄・和也は不愛想に笑いながら、玄関に積み上がったダンボールをひとつずつ片付けていく。
昨年農業系の大学へ進学した和也と同居する形でスタートした生活。
慣れない都会で、見知った兄の存在だけが唯一の救いだった。
♢
その夜。
事前に「引っ越しの片付けが終わった頃に顔を出す」と凪から連絡を受けていた英理は、落ち着かない様子で何度も壁掛け時計を確認していた。
部屋の中を無意味に行ったり来たりしては、鏡の前で何度も髪を整え、窓の外に目を凝らす。
東京で消防士として働く凪に、ようやく会える。
(早く会いたい。凪くん、変わっとらんかな)
そのとき、折りたたみ携帯が、ヴヴッと短くバイブレーションを鳴らして液晶画面をパッと照らした。
待ち焦がれていた画面に浮かび上がる、『凪』の文字。
英理は跳ね起きるように携帯を手に取り、パカッと画面を開いた。
『下に着いた。?』
ぶっきらぼうで短い、凪らしいメール。
長崎にいた頃のようにまた一緒に過ごせるんだという嬉しさが、胸いっぱいに広がる。
「…来た!」
英理は携帯を握りしめると、解きかけたダンボールを跳び越えるようにして部屋のドアへ向かった。
「おい英理、どこ行くん?」
「凪くん! 下まで迎えに行ってくる!」
一秒でも早く凪の顔が見たくて、英理はエントランスへと続く階段を夢中で駆け下りていった。
♢
春のひんやりとした夜風が頬を撫でる。
「…凪くん!」
街灯の下、こちらを見上げていたのは、数ヶ月前よりもひと回り逞しくなった肩幅の凪だった。
厳しい訓練を乗り越えてきた証のような頼もしい佇まいに、胸がぎゅっと熱くなる。
「お疲れ様。引っ越し、無事に終わった?」
聞き慣れない、妙に丁寧で平坦なアクセント。
英理は駆け寄った勢いのまま、思わず足を止めて凪の顔を凝視した。
「…ふふっ、何? その喋り方。凪くんじゃないみたい」
英理が我慢できずに吹き出すと、凪はきまり悪そうに、いつもの調子で言い返した。
「笑うなよ。これでもアパートで練習してるんやから。方言丸出しなのは、なんか、ちょっと恥ずかしいやろ。…っていうか、英理も気をつけたほうがええで」
「えっ、うちも?」
「そうや。これから芸能界で仕事するんやろ? 『片付く気がせん』とか『うち』とか、東京の人には通じへんから、変な顔されるかもしれんし。
ほら、標準語で言うてみ?」
「ええ…無理だよ、すぐには。凪くんのほうが全然似合ってないもん」
「そうやから練習中や言うてるやろ。標準語でシュッと喋れた方が、東京の男っぽくてええかなと思ったんけど、やっぱ無理あるか?」
「無理無理。凪くんは、そのままがいいよ」…
「…道、迷わんかった?」
「…ううん、駅からはなんとか。でも、人が多すぎてばりびっくりした」
「そうやな、長崎とは全然違うし。お腹空いてへん? コンビニで何か買ってこか?」
「あ、うん、大丈夫。さっき和也と一緒にコンビニ行ってきた」
「でもね、長崎と同じ看板のコンビニなのに、入るだけでめちゃくちゃ緊張したとよ。『うち、今東京のコンビニにおる…!』って」
「どんな緊張感やねん。売っとるもんは変わらんやろ」
英理が真顔で本気で心配そうに言うので、凪は思わず肩を揺らした。
「分かっとるよ! 看板も売っとるものも一緒やって頭では分かっとるけど…店のドアをくぐった瞬間、別世界におる気がしてさ。
レジで『お弁当温めますか?』って聞かれたら、ちゃんと返事できるか緊張すると」
「『お願いします』くらい長崎でも言うやろ。どんな警戒心やねん」
「だって、店員さんも東京の人でしょ? 下手に『温めて欲しいっちゃけど』とか言うたら、変な顔されるかもしれんやん」
「はぁ…」
「俺が東京で初めてコンビニ行った時なんか、ぜんぜん緊張せんとクールに店員に対応できたぞ」
「ほんとに? 凪くん、平然としとったと?」
「当たり前や。『お弁当温めますか?』って聞かれても、『あ、そのままで』ってクールに返したからな」
「…それ、温めてもらわんで冷たお弁当食べることになるやん!」
「甘いな。その“冷たさ”こそが、都会の洗礼や」
「絶対ちがう! 早く東京来ただけで、通ぶらんでよ!」
「考えすぎやって。よし、じゃあ『東京のコンビニ攻略戦』行くか。俺が横でしっかり見届けてやるから」
「もう、バカにしとるでしょ! 凪くんかて最初はド緊張しとったくせに!」
「…っ、俺は最初から堂々としとったわ!」
「あ、怪しい! ぜったい緊張しとったやん!」
英理がむくれて凪の腕をぽんと叩くと、二人はどちらからともなく笑い出した。
♢
「…凪くん、明日も早いの?」
「…おう、明日は朝から。
英理も、明日から仕事やんな?」
「…うん。緊張するけど、頑張るよ」
「…そっか。まあ、英理なら大丈夫やと思うよ。和也もおるし、何かあったら遠慮なく連絡してな」
遠くの幹線道路から、救急車のサイレンがかすかに響いてくる。
凪が一瞬だけそちらへ視線をやり、すぐに優しく目を細めて英理を見た。
「…じゃあ、またな。ゆっくり休んでな」
「…うん。凪くんも、気をつけてね!」
ペダルを漕ぎ出した凪の背中は、長崎にいた頃よりも少し広く、頼もしく見えた。
手を振りながら見送る英理の胸の奥で、東京での新しい一日への不安が、少しだけ温かな勇気に変わっていく。




