第66話 【運命の坂道から、未来へ】
2007年、三月。
和也と凪の卒業式が終わった放課後。
英理は、あの日、凪が自分を抱きとめてくれた三原の坂道を一望できる、高台の公園のベンチで待っていた。
「待たせたな」
卒業証書の筒を手にした凪が、坂を上がってきた。
和也は気を利かせて先に帰ったのか、公園には春の柔らかな風と、二人きりの時間が流れている。
「卒業、おめでとう……凪くん」
「おう。サンキュ」
二人は並んでベンチに座り、眼下に広がる長崎の街並みを見つめた。
あの初夏の朝。
英理が自転車のブレーキを離し、凪がその風切り音を聞いた「運命の坂道」が、西日に照らされて眩しく光っている。
「明日、本当に行くと? 東京」
「ああ。先に行って、場所作っとくわ。お前がいつ来てもええようにな」
英理は、ナオに背中を押されて手にしたオーディションの通知を思い出しながら、凪の横顔を見つめた。
「うちも、来年すぐに行くけん」
英理は少しだけ笑った。
「……凪くんが守る街で、うち、一番輝くけん。そしたら、離れ離れになっても、凪くんがうちを見つけやすいやろ?」
凪は不器用そうに視線を泳がせた。
それから、意を決したように英理の目を真っ直ぐに見つめる。
「輝くのもええけど、無理はすんな」
「俺にとっては、お前の幸せが一番や。……それだけは忘れんといてな」
英理は、少し驚いたように凪を見つめた。
自分の夢を応援してくれるだけじゃない。
何より先に、自分自身の幸せを願ってくれている。
その言葉が、胸の奥に静かに残った。
凪はポケットから、一枚の写真を取り出した。
グラバー園で撮った、二人の写真だった。
「……これ、覚えとる?」
「もちろん。グラバー園で撮ったやつやろ?」
凪は写真の中の二人をしばらく眺め、それから大切そうにポケットへ戻した。
「東京に行っても、これ見たら長崎のこと思い出せそうやな」
「……うん」
「うちも、絶対忘れんよ」
二人はしばらく黙ったまま、目の前に広がる長崎の街を眺めていた。
やがて、英理が立ち上がる。
「……行こっか」
「ああ」
二人は並んで坂道を駆け下りていく。
春の風が二人の背中を追い抜き、坂道に伸びた二人の影が、静かに重なった。
2007年、春。
長崎から東京へ。
二人の物語は、この場所から、新しい空へと続いていく。
――第一章・完。
(第二章へ続く)




