第65話 【涙を飲み込んだ「かっこよか」】
凪は握りしめた缶コーヒーから視線を上げ、真っ直ぐに英理の目を見つめた。
「俺、東京の消防士の試験、合格したんや。卒業したら、東京に行くことに決めた」
「……え?」
英理の動きが、ピタリと止まった。
「長崎じゃなしに……東京……?」
かすれた声で呟いた英理の瞳が、揺れる。
長崎で、ずっと一緒にいられると思っていた。
卒業しても、この坂道を二人で並んで歩いて、いつものように笑い合える。
そんな未来を、当たり前のように思っていた。
けれど――「東京」という街の名前が、その当たり前だった未来を大きく揺らした。
英理は視線を落とし、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
その肩が、小さく震えている。
凪は胸を痛めながらも、言葉を続けた。
「ずっと黙っててごめん。……俺、長崎に来て、お前やばあちゃんと出会って、大切な人を守れる強い男になりたいって、本気で思うようになったんよ」
「……うん」
「だからこそ、一番厳しい場所で、自分がどこまで通用するのか試してみたかった。東京で、挑戦してみたいんや」
冬の冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。
枯れ葉が坂道を転がっていく。
英理はコートの袖をぎゅっと握りしめ、それからゆっくりと顔を上げた。
「……そっか」
「……そっかぁ」
瞳には、まだ薄っすらと涙が浮かんでいる。
それでも、英理は笑った。
「おめでとう、凪くん」
「英理……」
「すごいよ。東京でチャレンジするなんて、ばり格好よかやんか!」
声は少し震えていた。
それでも、その言葉に嘘はなかった。
「ずっと一人で頑張っとったもんね。ほんとに……ほんとに、おめでとう」
「ありがとう、英理」
凪は、英理の冷たくなった手をそっと包んだ。
「俺、絶対立派な消防士になる」
「うん」
「だから、遠く離れても、お前のことずっと……」
「うん。信じとるよ、凪くん」
英理はまっすぐ凪を見つめ、静かに頷いた。
長崎の冬の空の下。
二人で過ごせる時間が、少しずつ残り少なくなっていく。
凪の夢を応援したい。
それでも、遠くへ行ってしまうことが寂しい。
その気持ちは、凪も同じだった。
♢
数日後の朝。
まだホームルーム前の静けさが残る教室で、英理は一人、机に頬杖をついていた。
凪が東京へ行く。
その事実を知ってから、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。
彼の決意を心から誇りに思う気持ちに、嘘はない。
けれど、凪が遠い街へ行ってしまう未来を想像するたび、どうしようもない寂しさが込み上げてくる。
(凪くんは前を向いて進んどるのに……)
(うちだけ、この街に残ったままになるんかな……)
自分も、凪の隣で胸を張っていたい。
でも――自分には、何ができるんだろう。
そんな英理の様子を、ナオが見逃すはずもなかった。
「英理!」
パンッ!
机の上に一枚の紙が叩きつけられた。
「えっ?」
顔を上げると、登校してきたばかりのナオが立っていた。
「英理、あんた何しよん!」
「な、何って……」
ナオは机の上の紙を指差した。
「凪くんはもう東京に行くって決めたんやろ?」
「……うん」
「だったら、あんたも自分の道、考えんさいよ」
英理は応募用紙に目を落とした。
そこには、
『アステリ・プロダクション芸能・全国新人ヒロインオーディション』
と書かれていた。
「……これ、何?」
「オーディション。全国から新人を募集しとるんよ」
「オーディション……?」
英理が戸惑うように紙を見つめる。
「英理。あんた、人前に立ったらちゃんと人を惹きつけるやろ」
「そんなこと、分からんよ」
「分からんでもいい。最初から自信満々な人なんて、そうおらんやろ」
ナオは応募用紙を英理の方へ押しやった。
「凪くんが自分の夢に向かって東京へ行くんやったら、英理も英理で、自分がやりたいことを探せばいい」
「……うちが、やりたいこと」
「そう。凪くんの隣にいるためだけやなくて、英理自身が胸を張れるものを見つけるんよ」
英理は、しばらく黙って応募用紙を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……うちにも、できるかな」
「やってみんと分からんやろ?」
「ほら。書きんさい」
英理は震える手でペンを握った。
そして――応募用紙の名前欄に、自分の名前を書き始めた。
『神之浦英理』
その文字を見つめながら、英理は小さく息を吐いた。
凪が東京で、自分の夢に向かって歩き始める。
だったら自分も。
いつか、胸を張って凪の隣に立てるように。
自分自身の道を、歩いてみよう。
その日、英理の手によって書かれた一枚の応募用紙が――二人の未来を、大きく動かし始めた。




