第63話 【ふたりの、証拠】
坂道を上り、レトロな洋風の雰囲気が漂うグラバー園へと足を踏み入れた。
緑豊かな庭園を抜けると、伝統ある木造洋館――旧グラバー住宅が二人の前に現れる。
そしてそのテラスの先に広がっていたのは、長崎港を一望できる圧巻の大パノラマだった。
「わぁ…すごいな…」
凪は手すりに寄りかかり、思わず感嘆の声を漏らした。
青く穏やかな海、行き交う船、対岸に見える巨大なドック、そして斜面にぎっしりと立ち並ぶ街の屋根。
午後の光を受けてキラキラと輝く港町の景色が、どこまでも広がっている。
「凄いやろ? 私、ここから見下ろす長崎の景色が一番好きとよ」
英理は潮風にふわりと揺れる黒髪をそっと手で押さえながら、嬉しそうに凪の横顔を見上げた。
「ほんまに凄いわ…。長崎って、こんなに空と海が近いんやな」
凪は広大な景色を見つめた後、ゆっくりと英理の方へと視線を戻した。
「俺、長崎に来たばかりの時は…正直、全然周りを見る余裕もなくてさ。でも、今日英理と一緒にここに来れて、ほんまに良かったわ」
凪の不器用でストレートな言葉に、英理は少し照れたように頬を染めた。
「…もう、凪くんは急にそういうこと言うけん」
英理は小さく呟くと、どこか誇らしげに、楽しそうに庭園の石畳を歩き始めた。
「あ、そうだ! 凪くん、ここに来たら絶対に探さんばいかんものがあると」
「え? 探すものって…何?」
「ふふ、ついてきて!」
英理に袖を引かれ、石畳の小道を歩いていく。
英理は足元をじっと見つめながら、宝探しでもするようにワクワクした表情を浮かべている。
「あった! 凪くん、これ!」
英理が嬉しそうに指さした足元を見ると、敷き詰められた石畳の中に、一つだけ綺麗なハートの形をした石が紛れていた。
「へぇ、ほんまや。綺麗なハートの形してるな」
「これね、見つけると幸せになれるとか、好きな人と結ばれるとか言われとるとよ。…凪くんと絶対に一緒に見つけたくて」
そう言って上目遣いに微笑む英理の透明感に、凪の胸が強く締め付けられた。
照れくささと愛おしさが一気に込み上げてくる。
「…そっか。英理のおかげで、見つけられたな」
凪は照れ隠しをするように、英理の手をギュッと力強く握り直した。
「…なあ、英理」
「ん?」
「俺、長崎のこと、まだまだ知らんことばっかりやから…これからも色んなところ、お前と一緒に歩きたいな」
長崎の風に包まれながら発せられた、凪の真っ直ぐな言葉。
英理はその温かい手から伝わる温度に胸をいっぱいにしながら、とびきりの笑顔で返した。
♢
旧グラバー住宅の最上段――長崎港とどこまでも広がる空が一望できる、グラバー園の中で最も美しい高台。
穏やかな陽光が港を黄金色に染め、遠くの造船所や行き交う船の影が、キラキラと輝く海面に鮮やかに浮かび上がってい吹き抜ける潮風が、二人の髪を心地よく撫でていった。
「わぁ……ほんまにここからの景色、めちゃくちゃ綺麗やな」
感嘆の声を漏らす凪の隣で、英理は静かに海を見つめていた。その瞳には、眩しい光と、溢れんばかりの愛おしさが揺れている。
やがて英理は自分のカバンの中に手を伸ばすと家にあった、どこか懐かしい『写ルンです』。を取り出した。
指先でダイヤルを回すと、ジーコ、ジーコと、レトロで愛おしい音が静かな高台に響いた。
「ねえ、凪くん。写真撮ろうよ。二人の、証拠」
「ええっ、俺そういうの、恥ずかしいわ」
照れて思わず後退りし、逃げようとする凪。
だが英理は「逃がさんよ」と言わんばかりに、凪の腕をぎゅっと自分の胸元へと抱き寄せた。
二人の距離が、一瞬でゼロになる。
伝わってくる肌の温もりと、少し早くなったお互いの鼓動。
「もう逃げんといて。私ね、今日の凪くんの顔、一生忘れたくないと」
風に揺れる黒髪の隙間から見えた英理の瞳は、冗談めかした顔ではなく、どこまでも真っ直ぐで真剣だった。
凪は息を呑み、逃げるのをやめた。
自分を引き寄せる英理の華奢な肩を、照れくさそうに、けれど包み込むようにそっと抱き寄せる。
英理は小さく息を吸うと、持ち上げたファインダー越しに、大好きな人の顔をしっかりと焼き付けた。
「いくよ、…はい、チーズ!」
カシャッ――。
安っぽいシャッター音が、長崎の空に響き渡った。
ファインダーの向こう側。
逆光の中、急な距離の近さに照れながらも、優しく目を細めて微笑む凪。
そして、彼の隣で、世界中の誰よりも誇らしげに、心からの幸せを咲かせる英理。
2006年の穏やかな長崎の海。
のちに国民的女優となり、無数のカメラのフラッシュを浴びることになる少女が、偽りのない『本当の自分』として、生涯でたった一人愛した男の隣で胸を張った一瞬。
何十年という月日が流れ、いつか二人が年老いた日にも。
古びたアルバムの片隅で、あたたかな光を放ち続けることになる「人生で最高の宝物」が、いま一枚の小さなフィルムの中に刻み込まれた。
「ふふっ、バッチリ撮れた! この写真、一生大事にするけんね」
「おう。なんか恥ずかしいけど…俺も、現像するの楽しみやわ」
現像される前の小さなカメラを、まるで宝物のように両手で抱きしめる英理。
凪はそんな彼女の横顔を愛おしそうに見つめながら、繋いだ手に、二度と解けないようにギュッと力を込めた。




