第60話 【もう、バカと?】
放課後の『たんぽぽ』は、午後の柔らかな光が差し込み、コーヒーの香りが漂う穏やかな空間だった。
店内の奥まった席に、凪はすでに座っていた。
注文したコーヒーは手つかずのまま、視線は入り口のドアに向けている。
カラン、コロン。
ドアベルが乾いた音を鳴らした。
凪が勢いよく顔を上げると、そこには制服姿のまま、少しだけ髪を乱した英理が立っていた。
彼女の目には、驚きと緊張、そして微かな期待が浮かんでいる。
二人の視線が、店内の静寂の中でぶつかり合った。
英理は一歩、また一歩と凪の待つテーブルへと歩み寄る。
英理が目の前に立ち、ぎこちなく椅子を引いて座る。
「…待たせてごめんね」
英理の小さな声が響く。
凪は、目の前の彼女の表情を逃さない、
「ううん、俺が呼んだんやから。来てくれて、ありがとうな」
凪は少しだけ視線を泳がせ、気まずそうにメニューへと手を伸ばした。
「…何か飲むか? ここのコーヒー、結構うまいんやで」
凪はメニューの端を指でなぞりながら、努めて普段通りに振る舞おうとした。
英理はメニューをめくりながら、少しだけ迷うように視線を巡らせ、それから小さく微笑み。
「…うちはレモンティーにするね」
「レモンティーか。…分かった、頼んでくるわ」
凪は店員を呼び、自分のコーヒーのおかわりと英理のレモンティーを注文した。
「最近、学校はどうなん?」
凪は飲み物が運ばれてくるまでの繋ぎとして、本当にたわいないことを聞いた。
「いつも通りよ。…あ、そういえば、おばあちゃんの具合はどう? 前にちょっと体調崩しとるって言っとったけん、ずっと気になっとったと」
「ああ、ばあちゃんか。おかげさまでだいぶ良くなってな、今はもう元気に散歩行ったりしとるよ。心配してくれてありがとな」
「よかった…ほんと心配しとったけん」
英理は胸を撫で下ろすようにほっと息をつき、それから静かに凪を見つめた。
「…凪くんこそ、最近どうしとったと?」
その穏やかなやり取りは、まるで何もなかったあの日々の続きのようだった。
凪はゆっくりと顔を上げ、今度はしっかりと英理の目を見据えた。
「正直に言うわ。…全然、いつも通りやなかった。おらへんかった間、ずっと…お前のことばっかり考えてたんや」
たわいない会話は、そこまでだった。
凪の言った「ずっと考えていた」という言葉が、胸の中で波紋のように広がる。
英理は少しだけ背筋を伸ばし、覚悟を決めたように凪をまっすぐに見据えて言った。
「…ねえ、凪くん」
「ん?」
「わざわざお昼休みに、うちの学校まで来て…。あんなふうに教室まで来て呼び出して、一体なんの用事と?」
英理の声は少し震えていたけれど、その瞳には「もう逃げないで、ちゃんと本当のことを聞かせてほしい」という強い意志が宿っていた。
凪は、真っ直ぐに英理を見返した。もう誤魔化す時間は終わった。
「そうやな。回りくどいことは言わんわ」
凪はカップを静かに置き、両手をテーブルの上で重ねた。
「お前に…ちゃんと謝りたかったんよ。それと、ずっと言えてなかった、俺の本当の気持ちを伝えに来た」
「あのマクドナルドで…『英理に彼氏がおる』って聞いて、俺、頭が真っ白になったんや」
「お前が俺のことなんてどうでもええんやって、そう思い込むことで自分を守ろうとした。お前と話すことが怖くて、向き合うことから逃げてたんや。…ほんまに情けないよな。」
凪はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で英理を真っ直ぐに見つめる。
「…何でそんなことしたんか、今なら分かる。
俺、お前のことが…お前のことが誰よりも大切やったから、失うのが怖くて、自分から逃げ出してしまったんや」
英理は凪の言葉を一つひとつ、心に刻むように聴いていた。
不器用で、けれど真っ直ぐな告白を聞き、英理の目からは抑えていた涙がこぼれ落ちた。
彼女はテーブルに置かれたレモンティーのカップを握りしめ、震える声で話し始めた。
「…凪くんだけじゃないとよ」
英理は凪の顔を見つめ。
「あの時、マクドナルドで…うちも動揺してしまって。何か言わんばいかんのに、頭が真っ白になって、結局…あんな態度とってしまったこと、ずっと後悔しとったとよ」
英理は一度息を飲み、込み上げてくる感情を必死で抑えながら言葉を紡ぐ。
「凪くんとちゃんと話せんかったことも、本当のこと…裕介くんとの間に何もないってことも、言えんかったまま逃げてしまったことも…ずっと、ずっと苦しかったんと」
「…うちね、本当は…誰よりも凪くんと話したかったと。なのに、変な意地張って、距離置いて…本当にごめんね」
店内に流れるジャズの音量が、二人の鼓動を包み込むように小さく響いた。
凪は赤くなった顔を隠すように一度咳払いをすると、震える声で切り出した。
「あのさ、英理。こんな俺で、こんな情けない男で良かったら…俺と、その、これからも…よろしくお願いします」
意を決して言ったはずのその言葉に、英理はきょとんとした表情で固まった。
「え…?」
「…だから、これからも、よろしくお願いしますって」
「…凪くん、今のそれ、『よろしくお願いします』じゃなくて、もっとこう…あの言葉、言ってくれるとじゃなかったと?」
「え、あの言葉って…?」
凪が呆然と聞き返すと、いつもの勝気で可愛い英理の顔に戻った。
「あんたねぇ! 今の、うちへの告白じゃなかと!? 普通、この状況やったら『付き合ってください』とか、もっと恋愛的な言葉ば言うでしょうが! 周りの男子なんか、会ってすぐに『俺と付き合って』とか平気で言うのに、凪くんは『よろしくお願いします』って…もう、知らん!」
「い、いや! 違うんよ! 違うんやけど、俺、緊張しすぎて何言うたらええか分からんくなって…」
「…もう、バカと?」
英理は小さくため息をつくと、諦めたように少しだけ微笑んだ。そして、
「…はいはい。じゃあ、うちからも言うね。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
「あ、英理…!」
英理の言葉を聞いた瞬間、凪の表情が一気に明るくなる。
少し怒っていたはずの英理も、凪のその無邪気で嬉しそうな顔を見たら、もうそれ以上怒ることはできなかった。
「ふふ、もう…一生懸命考えたのが『よろしくお願いします』とね。凪くんらしいよ」
「ほんまに、ごめん。次からはちゃんと、男らしい言葉言うようにするから!」
「次があるとは分からんけど、期待しとくね」
二人の間にあった長いわだかまりが、すうっと消えていく。
冷めてしまったレモンティーとコーヒーのカップを挟んで、二人は自然と顔を見合わせて笑い合った。
ようやく戻った、二人だけの穏やかな時間が、放課後の『たんぽぽ』にゆっくりと満ちていった。




