第51話 【一線を超えた口滑り】
(いや、幻じゃない。本物ばい。凪くんが、居る)
「おい、英理。お前、来とったんか」
凪の隣にいた和也が、いつもの調子でひょっこりと顔を出した。
「お前ら、さっきから後ろでちょっとうるさかったぞ。うちら急かされとるんかと思って気まずかったわ。なぁ、凪?」
そう言って凪の肩を叩く和也。
しかし、当の英理は目の前の凪と視線を合わせたまま、完全に固まっていた。
(いや和也くん、何普通にいつもの兄妹の会話始めとるとよーっ!?)
英理の隣で状況を飲み込めていない裕介が、英理の肩をポンと叩いた。
「おい英理、どうしたん? そんなに硬くなって」
和也はきょとんとした顔で、裕介の方を向く。
「えっ。お前、英理の友達か?」
裕介は、ダブルデートのような空気に浮かれた勢いのまま、つい見栄を張った。
「あ、ああ。まあ、そんな感じっすね」
裕介はニヤリと口角を上げると、堂々と胸を張った。
「英理ん彼氏ばい」
その言葉が、レジカウンター前の空気に突き刺さった。
「…………へ?」
和也はポカンと口を開け、英理は顔面蒼白のまま時が止まる。
凪は頭の中が完全にショートして、火花が散ったような表情を浮かべた。
ナオは絶望した。
(あ、あ、あああ……っ!!!)
(何言っとんとよ、そのバカ男ーっ!!! 誰に向かって『彼氏』って言うとっと!! これが英理のお兄ちゃんって分かって言うとっとか!? それに凪くんの前で……凪くんの前で何てことを!!)
「で、あんたたちはどちら様すか? 英理の知り合い?」
和也は、さっきまでののんきな表情から一変、眉間にシワを寄せた。
「は? 俺は英理の兄ですけど」
「えっ……」
裕介が呆然と声を漏らす。
その横で、ナオは膝から崩れ落ちそうになりながら、心の中で頭を抱えた。
(終わった。完全に、終わった……!)
(お兄ちゃんの前で『彼氏』って自己紹介するなんて裕介、和也くんの目が、今めちゃくちゃ殺気立っとるけん!!)
一方、凪は目の前にいるのが紛れもなく英理だということを、ようやく認識していた。
そして、彼女の隣には「彼氏」を名乗る男がいる。
凪は、目の前の現実を受け止めるだけで精一杯だった。
「……あ、ああ……」
(英理が……目の前におる。でも、俺の知らん人と一緒に。彼氏?)
英理のことを想う余裕も、周りを見渡す冷静さも、今の凪にはなかった。
その凪の虚ろな表情を見て、ナオは息を呑んだ。
(凪くん!?)
ナオには、凪が今にも崩れてしまいそうに見えた。
(アカン、凪くん、完全に誤解しとる……! このままじゃ、本当に何もかも終わってしまう!!)
「英理さん……いたの」
それが、凪に出せる精一杯だった。
その声を聞いた英理もまた、極限状態だった。
自分を呼ぶ凪の声が、あまりにも掠れて、壊れそうなほど震えている。
(凪くん……?)
「……え、うん」
その一言が、二人の喉から絞り出される。
これ以上の会話は、二人には不可能だった。
すぐ近くで見守るナオは、今にも崩れそうなこの状況をどう立て直せばいいのか、必死に考えていた。




