第39話 【届かなかった想いの行き着く場所】
「…そっか。そうなんやな」
低く、押し殺したような声。
タカミは英理を置いてけぼりにしたまま、踵を返し、フタバブックスの自動ドアをくぐった。
その足取りは、先ほどまでとは別人のように静かだったが、英理は異様な不気味さを感じた。
「待って、タカミくん!?」
英理の呼びかけを無視して、タカミは店内へと戻っていく。
その視線の先にあったのは、向こう側で自分たちの戻りを待っている凪の姿だった。
(ダメ、凪くんの方に行っちゃ…!)
入り口から、タカミがただならぬ気気配を纏ってこちらへ歩いてくるのが見えた。
その背後では、顔を青ざめさせた英理が必死の形相で彼を追いかけている。
凪はその光景を見た瞬間、事態がただ事ではないことを本能で察した。
「…ナオ、離れといてくれ」
凪は短く、しかし強い口調でナオに命じると、彼女を背後に隠すように一歩前へ出た。
全身の筋肉を硬直させ待ち構えた。
「…ナオ、下がれって言ったやろ!」
凪のいつにない緊迫した声に、ナオは息を呑む。
彼女もただならぬ空気を感じ取り、反射的に凪の背後に身を引く。
タカミは一直線に凪の前に立ちはだかると、その目は凪の背後にいるナオには目もくれず、ただ真っ直ぐに凪の瞳を睨む。
「凪…!!」
タカミは凪の胸ぐらを勢いよく掴み上げてきた。
「お前、なんで…!」と激昂し、凪の視界を揺らす。
凪は後ろに押し倒される直前、反射的に背後のナオを確認した。
彼女がすでに席から離れ、安全圏にいることを悟ると、凪は抵抗することをやめ、力なく床に倒れ込んだ。
どさりと鈍い音が響き、タカミはそのまま凪の胸元に乗りかかって、その顔面を容赦なく見下ろす。
「タカミくん、やめて!」
英理の悲鳴のような叫びが店内に響く。
ナオはすぐに英理の横へと駆け寄り、彼女を庇うようにして二人でその光景を注視する。
周囲の客たちが驚きで席を立ち、店内の空気は緊張で張り詰める。
タカミは荒い呼吸で、掴んだ胸ぐらをさらに締め上げた。
「お前のせいじゃなか…! でも、俺のこの気持ち、どうしたらよかとや…!」
その時、ナオがタカミの肩を背後から掴み、必死の形相で叫んだ。
「やめてよ! あんた、いい加減にしとき!」
事態を止めようと、英理もナオの隣へ駆け寄る。
しかし、逆上して視界が狭まっていたタカミは、自分を制止しようとしたナオを邪魔者だと認識し、乱暴に肩を振り払った。
そ瞬間、振り回されたタカミの肘が、勢いよくナオの顔面に直撃した。
「っ…!」
ナオがくぐもった声を上げて後ろに倒れ込む。
その光景を見た瞬間、凪の中で何かが切れた。
先ほどまでの「抵抗しない」という意思は消え失せ、凪は素早くタカミの頭を掴み、自分の体を反転させ、渾身の力でタカミを横へと振り倒す。
「ナオ!」
凪は即座にタカミから距離を取り、倒れ込んだナオの元へと這うようにして寄り添った。
タカミが床に転がる中、凪はナオの肩を支え、蒼白になったその顔を覗き込んだ。
「ナオ…おい、大丈夫か!?」
英理は震える手でナオの頬に触れ、彼女の頭をそっと自分の胸に抱き寄せた。
ナオの顔には鈍い赤みが広がり、痛みで顔をしかめている。
その姿を目の当たりにして、英理の心は恐怖と悲しみで押し潰さる。
英理は、まだタカミに向かって怒りの炎を燃やし続ける凪の背中に、すがるように声をかけた。
「凪くん、もうやめて。…お願い、もうこれ以上は…」
それが、今の英理の唯一の願いだった。
これ以上、誰かが傷つくのを見るのは耐えられない。
凪は一度だけ深く息を吐き出すと、床に倒れ込んで荒い呼吸を繰り返すタカミの襟首を掴み上げ、強引に立ち上がらせた。
抵抗する気力すら失いかけているタカミを、凪はそのままナオの目の前まで連れて行った。
「おい、タカミ」
凪の声は低く、かつてないほどの怒りが、その瞳に宿っている。
「…お前、わざとじゃないにしても、ナオに傷をつけた。今すぐ、ナオに謝れ」
「謝らんのやったら、お前のこと、俺が絶対に許さへん。
俺の仲間を傷つけたこと、一生後悔させてやる。分かったか!」
タカミの視線が、英理の胸元でか細く呼吸をするナオの姿へと注がれる。
ナオの頬の赤みと、その頭を震えながら抱きしめる英理の必死な姿。
その光景が、興奮で塗りつぶされていたタカミの理性を呼び戻した。
己の振る舞いが取り返しのつかない重みを持って全身にのしかかる。
「俺っ、ナオさん…大丈夫か…?」
掠れた声でそう呟くのが精一杯。
タカミは凪の手から逃れるようにして膝を突き、うつむいて絞り出すように言葉を続けた。
「…ごめん」
たった一言。しかし、その短い謝罪は、あまりに遅すぎた。
英理はナオを庇うように抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には大粒の涙があふれ出していた。
彼女はタカミの目をまっすぐに見据え、震える声で言い放った。
「もういい。タカミくん、帰って」
「英理、違う、これはその」
「もういいから!」
英理は泣きながら、それでも強い意志を込める。
「お願いやけんもうこんなこと、二度としないで。悲しいんと…」
英理は大切に思ってきたはずの相手が、今この瞬間、自分の最も大切な親友を傷つけたという事実が、彼女の中で決壊した。
「私の、大事な友達にこんなことして…っ!」
英理は視線を下げていたタカミに向き直り、鬼気迫る表情で叫んだ。
「私も、今はタカミくんのこと許さない! …許せるわけなかろ!」
英理は怒りと悲しみで我を忘れたように声を荒らげた。
その姿に、タカミは言葉を失い、ただただ立ち尽くす。
英理はナオをかばうように強く抱き寄せ、涙で濡れた瞳でタカミを睨みつけ。
「だから、もう…もういいから。今はもう、帰って!」
タカミは、自分が大切にしていたはずの少女が、今や自分を拒むために声を荒げている現実を突きつけられた。
彼は何も言い返せず、ただぼんやりと英理とナオを見つめた後、ふらりと踵を返す。
店内の客たちが静まり返る中、タカミは一人、誰にも引き止められることなく、重い足取りで出口へと消えていった。




