第28話 【母からの大切な言葉】
ティーカップを静かにソーサーへ戻すと、美津子は柔らかな笑みを浮かべたまま、凪をまっすぐに見つめた。
「ねえ、凪くん。英理のこと、どこがそんなに気に入って、いつも一緒にいてくれるのかしら?」
直球の問いかけに、凪は手にしていたフォークを止める。
隣に座る英理も、少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「英理さんといると、俺、飾らんでええんです。かっこつけんでも、背伸びせんでも、そのままの自分でいられる。それが、一番大きいかもしれません」
凪はふっと隣の英理を見て、困ったように笑う。
「あと、英理さんって何かあると、すぐに俺に報告してくれたりするんです。
今日の出来事とか、失敗した話とか。そういう『何でもないこと』を共有してくれるのが、すごく嬉しくて。
俺の毎日も、英理さんのおかげでなんかこう……色づくというか、楽しくなるんです」
真っ赤になって話し終えた凪を見て、美津子は「あらあら」と目を細めた。
隣で聞いていた英理は、嬉しさを隠しきれない様子で、凪の腕にぎゅっとしがみつく。
「あの、もちろん英理さんが笑っとる時が一番嬉しいんですけど。でも、なんか……その『今』を一緒に共有できとるっていうか、そういう時間すら、俺はすごく嬉しいんです」
「それに、英理さんが幸せになれるなら……極端な話、俺は影からでもええから応援したいんです。
もし将来、俺たちが大人になって、別の道を歩むことになったとしても、英理さんが幸せでさえあってくれれば、俺はそれでいいっていうか」
言いながら、凪は自分の言葉の壮大さに気づき、急に顔を真っ赤にした。
「あ、今の言い方、なんか英理さんの幸せが俺の幸せみたいな……! うわ、俺なんか『親目線』みたいな偉そうなこと言ってますよね!? ヤバい、変なこと言ってしまった! すみません、変に聞こえましたよね!」
凪は慌てて自分の口を覆い、あわあわと動揺する。
あまりに真っ直ぐで、相手の未来すら自分のことのように願うその言葉に、美津子は思わず胸を突かれたような表情を浮かべた。
隣の英理は、驚いたように凪の顔を見つめたあと、ふにゃりと愛おしそうに目を細める。
「凪くん……」
「ふふっ。凪くん、それは『親目線』じゃなくて、本当に英理のことを大切に思ってくれているからこその言葉よ。……そんなふうに思ってくれる人に巡り会えて、英理は幸せ者だわ」
美津子は、穏やかだった表情を少しだけ引き締めた。
「凪くん、事故の時のお礼もそうだけど、今あんなに真っ直ぐな言葉をかけてくれて、お母さん、本当に安心したわ」
美津子は一度紅茶を飲み、ふうっと静かな息をつく。
「でもね、英理とずっと一緒にいるなら、この子の『難しさ』についても知っておいてほしいの。
英理はね、一度こうだと決めたら、周りが全く見えなくなるくらい真っ直ぐすぎるのよ。自分の正義や考えから少しでも外れると、どうしようもなく苛立って、激しく怒ってしまうこともあるの」
凪は、いつもの天真爛漫な英理を思い浮かべながら、美津子の言葉を一つずつ噛み締めるように聞いた。
「大事なものを守ろうとするあまり、自分の中で抱え込んで、頑なになってしまうところがあるの。
もし衝突したら、この子の隠し持っている『本性』というか、剥き出しの強さが見えるかもしれないけれど……まさか、もう知っているかしら?」
美津子は少し不安げに、けれど凪の反応を確かめるように問いかける。
英理は隣で「お母さん……」と気まずそうに声を漏らしたが、美津子の目は真剣だった。
凪はしばし黙り込み、それからゆっくりと首を横に振る。
「いえ、まだ喧嘩らしい喧嘩はしたことないです。でも」
凪は一度言葉を切ると、隣の英理の手をそっと握り直し、今度は美津子から視線を逸らさずに言った。
「英理さんが自分の考えを譲れなくなるくらい、何かを必死に守ろうとしている時、それは、英理さんがそれだけその相手や物事を大切に思っている時だっていうのは、なんとなく分かります。
もし、いつか英理さんが怒ったり、俺とぶつかったりしたとしても、それは英理さんが真剣に生きてる証拠やと思うので。俺、逃げたりしません」
凪の言葉に、美津子の表情が驚きから、やがて安堵の笑みへと変わる。
英理は、凪の頼もしい横顔を見つめ、目頭を熱くして小さく微笑んだ。
「お母さんっ、もう! さっきから一体何を質問しとるんよ!」
英理は顔を真っ赤にして、美津子の言葉を遮るように声を上げた。
「『英理が怒ったら』とか『本性』とか……そんなの恥ずかしすぎて聞いていられんよ! 私はただ、凪くんと楽しくお茶したかっただけなのに……もう、話の方向性が重すぎるって!」
英理はクッションを抱きしめ、恥ずかしさで身をよじらせる。
「早く楽しい話に切り替えてよ! ケーキの話とか、今度の休みの予定とか、そういう平和な話がいいの!」
美津子は娘の必死な訴えを優雅に聞き流しながら、ニヤリといたずらっぽく口角を上げた。
「あら、そう? でもねぇ、あなたたち、さっきからずっとお互いの手、ガッチリ握りしめたままじゃない」
「えっ」
「必死に手を取り合って弁解している姿、見ていて面白いわよ」
美津子がクスクスと肩を震わせると、英理と凪は自分たちの手元を同時に見下ろした。
「わっ……!」
「うわっ、ごめんなさい……!」
「ふふふっ、本当に仲がいいのねぇ。そんなに慌てなくても、誰も取り上げたりしないわよ」
美津子はカップを置き、まっすぐ凪を見た。
「凪くん。さっき将来の話をしていたけれど、別々の道なんて歩かなくていいのよ。この先も、いつでもまた、うちに美味しいお茶を飲みに来なさい」
凪はわずかに息を呑み、それから深々と頭を下げた。
「……はい! ありがとうございます!」
♢
凪が帰宅したあとのリビング。
先ほどまでの意味深な、先を見越したような言葉の余韻に、英理は小さく首を傾げた。
「えっ、どういう意味? お母さん、まだ私たち、そんな大層な仲じゃなかとよ!」
英理は顔を真っ赤にして、一生懸命に否定する。
しかし、美津子はそんな娘の反応を軽く受け流し、ニヤリと笑った。
「あら、そうかしら?」
美津子は、テーブルの下で先ほどまで二人が絡めていたであろう手元をチラリと見て、悪戯っぽく肩をすくめる。
「そんな仲じゃなければ、私の前で堂々と手を取り合って、あんなに必死に言い訳するような『仲』は、一体どういう仲なのかしらね」
「もうっ、お母さんっ……!」
「お母さん、さっきはちょっと質問しすぎやけん! 凪くんのこと、あんまり追い詰めんとってよ」
「ごめんごめん、ちょっと意地悪だったかしら。でもね、お母さんなりに凪くんのこと、ちゃんと見ておきたかったの」
美津子は英理の前に座り、娘の瞳をまっすぐに見つめた。
「凪くん……本当にいい子ね。あの性格なら、どんなことがあってもあなたのこと、最後までちゃんと受け止めてくれると思うわ」
「え……」
予想もしなかった母からの太鼓判に、英理は言葉を失う。
美津子は続けて、少しだけ表情を引き締めた。
「あなたは時々、自分の気持ちを守ることに必死で、一番大事なものをどこかに置き忘れてしまいそうになることがあるでしょう?」
「これからのこと、あなたがちゃんと大切にしていきなさい」
母親のその言葉に、英理は小さく息を呑んだ。
凪と過ごす日常が当たり前になりすぎて、それがいつかこぼれ落ちてしまうかもしれない怖さを、図らずも母親に見透かされたような気がしたからだ。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱を帯びる。
「……わかっとるよ」
英理はマグカップのふちを指でなぞりながら、窓の外の夕暮れを見つめた。
凪の温もりと、母の言葉が、じんわりと胸の底に染み込んでいくのを感じながら。




