第175話 【生まれ変わっても】
冬。
長崎は、数十年ぶりの雪に静かに包まれた。
坂道で一人の少女を救ったあの日から、人の命を救う仕事に身を捧げ、最後には、もう一人の少女を救うために自らの命さえ顧みなかった凪の鼓動が、静かに、その役目を終えようとしていた。
「……凪くん。凪くん、聞こえる?」
枕元で凪の手を握りしめる英理の声は、震えていた。
八十歳を超えた凪の手を、英理は自分の両手で包み込んでいた。
その手は、驚くほど冷たかった。
凪は重い瞼をゆっくりと開け、霞む視界の中で、愛してやまない妻の姿を探した。
「……英理。……泣くな。……お前の……綺麗な顔が、台無しや……」
掠れた声。
けれど、その瞳には、最後まで穏やかな光が宿っていた。
凪は残された力を込め、英理の指をそっと握り返した。
「……幸せやった。あの坂道で、お前にぶつかられて……俺の人生は、完成したんや。お前を守れて、ほんまに、よかった……」
「……うちもよ。凪くんがおってくれたけぇ、うちは世界一幸せな女の子になれたんよ。……ありがとね。うちを見つけてくれて、ほんまにありがとね……」
英理は凪の手に頬を寄せ、静かに涙を流した。
背後では、ひかりが肩を震わせながら、二人を見守っていた。
凪は窓の外に降り積もる雪を見つめ、安らかな微笑みを浮かべた。
(……ああ。……ええ景色や……)
凪の手が、英理の手の中で、静かに力を失っていった。
――数年後。
凪の後を追うように、英理もまた穏やかな眠りについた。
二人の遺品の中から見つかったのは、あの日「写ルンです」で撮った、少しぼやけた初デートの写真と、一粒の輝きを失わないネックレス。
そして、ひかりに宛てた一通の手紙だった。
『ひかりへ。
お父さんとお母さんはね、あの坂道で出会ってから、一秒も後悔したことはないんよ。
もし生まれ変わっても、うちらはまた、あの坂道で激突する道を選ぶわ』




