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第172話 【帰る場所】

その日は、長い年月を歩んできた英理にとって、大きな節目の日だった。


「――私は今日、この坂道を下りて、一人の『妻』として、あの日私を助けてくれた人のもとへ帰ります」


スクリーンに映し出されたのは、最後の一作となった自叙伝的映画『凪の坂道』。


2005年のあの日、自転車がパンクして一人の少年の胸に飛び込んだあの日から、2016年の猛火、そして後に明らかになった真実まで。


彼女が「神之浦英理」として生きた時間の裏側には、いつも一人の男の存在があった。


映画には、英理が歩んできた道と、その傍らで彼女を支え続けた凪との物語が描かれていた。


引退会見の最後、彼女は深く頭を下げた。


そして顔を上げた時、その表情には、女優としてではなく、一人の女性としての穏やかな笑顔が浮かんでいた。


「長い年月の間、私の『光』を繋ぎ止めてくれたのは、名もなき一人の消防士さんでした。……彼が守ってくれたこの命を、これからは彼と一緒に、大切に育んでいきたいと思います。皆様、長い間、本当にありがとうございました」


会見場を出た廊下の突き当たり。


そこには、正装のスーツ姿で、少し脚を引きずりながら壁に寄りかかる凪の姿があった。


「……凪くん」


「うん。お疲れさん。……ごっつ綺麗やったぞ、最後の一歩まで」


凪は、駆け寄ってきた英理の肩を力強く抱き寄せた。


「……凪くん、うち……やっと『英理』に戻れたんやね」


「……ああ。お帰り、英理。……さあ、家に帰ろう。ひかりが、お前の好きな肉じゃが作って待っとるわ」



翌朝、長崎・三原。


そこには、変装もサングラスもせず、ゆっくりとあの坂道を上っていく一人の女性の姿があった。


すれ違う近所の人々に、


「おはようございます」


と穏やかに微笑む。


その姿は、かつて誰もが知る「神之浦英理」ではなく、この町で暮らす一人の女性そのものだった。


2005年、あの坂道で始まった二人の物語。


長い年月の中で、一度は離れた二人。それでも、互いのもとへ帰り続けた。


坂の上から見下ろす長崎の海は、朝の光を受けて静かに輝いていた。


英理はその坂道を上り、いつもの家へと帰っていった。

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