第171話 【家族へ語り継ぐ】
その日の夜、和也がいつものように凪の家に遊びに来ていた。
リビングで酒を飲みながら昔話に花を咲かせていた二人だったが、酔った和也が、余計な一言を口にした。
「……なあ凪、覚えとるか? 高校の時、後輩の女子に呼び出されて告白された時よ。お前、鼻の下伸ばして『どうしようかなぁ』なんてニヤニヤしとったよな!」
「あ、いや……和也、それは言い過ぎや! ただ、返事に困っただけで……」
「嘘ば言うなって! あん時お前、『あの子、めちゃくちゃ可愛いなぁ』って俺に言うたとやけん!」
(和也のバカが、余計なことを……!)
英理は無言で立ち上がった。
「……凪くん、ちょっと外出んね」
「あ、いや、英理……。これはその、和也の記憶違いというか、酔っ払いのタワゴトであって……」
「外、言うたよね?」
「うちら、あの時もう付き合っとったよね? うちが毎日、話しかけるチャンスば狙っとった頃よね?」
「うちはあんたに好きって言ってもらいたくて、料理もできんのに『いつかお弁当作ってあげたいな』なんて考えとったんよ! 結局一度も作れんかったけど、そんな健気なうちば余所に、あんたは後輩の女子高生になびきそうになっとったと!?」
「……違うんや、英理! それは和也の記憶違いで……」
「記憶違いなわけなかとよ! うちは連絡ひとつ返ってこんだけで、あんなに待っとったとに……! 結局、うちより『シュッとした儚げな美人』が良かったとやろ!」
「もうええ! あんたなんか、一生その後輩の女子高生ば追いかけとけばよかと! うち、今すぐ実家に帰るけんね!」
「……待て、英理! 昔の話ば今さら……っ」
「昔も今も一緒よ! 裏切りは裏切りやけん!」
英理は寝室へ向かうと、クローゼットを乱暴に開け始めた。
「……はい、ストップ」
本を読んでいたひかりが、ため息をついて立ち上がった。
「お母さん、また『実家に帰る』って言っとるけど……結局、お母さんの家出って寝室なんじゃない?」
「ほら。和也おじさんも、油注ぐのやめて」
「……お父さん。今の話が本当なら、確かにお父さんが百パーセント悪いわ。でも、お母さん。だったら、なんで今までお父さんと一緒におったん? お父さんが本当にその子のことをば好きだったなら、とっくに何かあったでしょ?」
「……それは……」
「お父さんはね、なんだかんだ言って、最後にはいつもお母さんを『救助』しに行く人じゃん。……お母さんだって、そんなお父さんだから今まで一緒におったんでしょ?」
英理はクローゼットの扉を掴んだまま、言葉を失った。
「ほら、お父さん。今はとにかく、お母さんに謝りなよ」
「……英理。悪かった。……俺には、お前しかおらんのや」
凪がそう言うと、英理は「……バカ」と呟き、顔を隠したままその場に座り込んだ。
「あーあ、いい年して。和也おじさん、お父さんのこと困らせるなら、もう出禁だよ」
♢
凪と和也が居間でいびきをかいて寝入った後、リビングには英理とひかりの二人だけが残された。
テーブルの上には、和也が持ち込んだ酒の空き瓶と、食べかけのおつまみ。
ひかりは眠っている凪を見つめながら、英理に問いかけた。
「……ねえ、お母さん。さっきの喧嘩もそうだけど、お父さんとお母さんって、本当に色々あったんだね。……和也おじさんから聞いた『お父さんが死にかけた話』とか、お母さんが東京で独りぼっちだった話とか……本当のこと、もっと教えてよ」
「……ほうね。あんたには、まだ話しとらんかったね。……お父さんとお母さんの物語はね、2005年のあの坂道で、自転車がパンクして、うちが自転車から投げ出されたところを、お父さんに助けてもらったことから始まったんよ」
「……それからね、2016年のあの火災の時、お父さんは自分の名前も将来も全部捨てて、見ず知らずの女の子を助けるために炎の中に飛び込んだんよ。一年以上も意識が戻らんで……それでも、あのネックレスをうちのもとに届けてくれたん」
「一年も……。お父さん、そんなこと一言も言わないのに」
「そうよ。あいつはね、自分のしたことを『仕事じゃから』って笑って片付けてしまう、不器用な人なんよ。……うちが東京のきらびやかな世界に夢中になって、凪くんから離れていった時も……それでも、うちがボロボロになった時には、迎えに来てくれたんよ」
ひかりは、眠っている凪を見つめた。
「……お母さん。……お父さんを選んでくれて、ありがとう。……私、この家の子に生まれて、本当によかった」
「……うちこそ。……お父さんに、あんたを抱かせてあげられて、ほんまに幸せなんよ」
英理はそう言って、眠っている凪を見つめた。




