第169話 【女心は炎より難しい】
「――お父さん! またお母さんのこと、じっと見とる。キモいよ!」
ツヤのある黒髪を揺らし、制服を着こなした十七歳のひかり。その瞳は、高校生の頃の英理と驚くほど似ていた。
「見てへんわ。……ほら、お前も早く飯食え。遅刻するぞ」
凪は照れ隠しに新聞を広げるが、その視線はキッチンでエプロン姿のままお弁当を詰めている英理へと、やはり吸い寄せられてしまう。
「もう、ひかり。お父さんをいじめんの。……はい、お弁当。今日はあんたの好きな長崎天ぷらよ」
「やった! さすが、国民的女優。盛り付けだけは天才的だね」
「『だけ』は余計よ。……ほら、早く行きんさい。坂道、転げ落ちんようにね」
「わかっとるって! 行ってきまーす!」
ひかりは元気よく玄関を飛び出し、あの坂道を、かつての英理と同じように危なっかしく駆け下りていった。
「あいつ、ほんまにお前に似てきたな。……向こう見ずなところまでそっくりや」
「ふふっ。……でも、あの子には凪くんみたいな過保護なヒーローは、まだおらんみたいよ」
「……ひかりも、もう十七歳なんやね」
「おう。俺らが出会った頃と同じ歳やな」
「……あの頃のうちらも、こんな感じやったんかな」
「いや、お前はひかりよりずっと危なっかしかったわ。あの坂道、えらい勢いで飛んできたやろ」
英理は笑いながら、窓の外の坂道へ目を向けた。
♢
夜。
画面には、今をときめく若手の可愛い女性タレントが、満面の笑顔で映し出されていた。
凪は無意識に鼻の下を伸ばし、
「ほう、最近の子は愛嬌があってええな。一生懸命やっとるわ」
「ふーん。凪くん、ああいう『愛嬌たっぷり』な子が好みなんや」
「……あ、いや。そういう意味やなくて。……ただ、元気があってええなと思っただけや」
「元気なら、うちだってあるよ。……さっきからその子が出るたびに、凪くん、目が細くなっとるもん。うちはもう、見飽きたってこと?」
「バカ言え! お前と比べるわけないやろ。……俺にとっての世界一は、昔からお前やって言っとるやろが」
「もうええよ。うちはどうせ、怒ってばっかりの可愛げのない女ですよ」
英理はプイッと顔を背け、雑誌で顔を隠すようにして寝室へ向かおうとした。
その時、凪が素早い動きで英理の手首を掴んだ。
「待て。ほんまに、お前しか見えへんのや。さっきのは、ただ頑張っとる子を見とっただけや。……お前が一番綺麗で、一番可愛い。……あの日から、それは一秒も変わっとらんのや」
「……ほんま? ……嘘ついたら、明日のお弁当、真っ白のご飯だけにするけんね」
「うん。嘘やない。ほら、座れ。まだ番組終わっとらんぞ」
「……しゃあないね」
英理は再び凪の隣に収まった。
「もう、凪くんがそこまで言うんなら許してあげるわ」
「ねえ、凪くん。怒らんけん、正直に教えて? これまでの人生で、うち以外に『あ、この女優さん綺麗だな』とか『このアイドル、ばりタイプだな』って思った人、一人くらいはおるでしょ? さっきの子みたいに」
「……まあ、そうやな」
「昔やけどな。バンドのボーカルやってた坂井涼香さんは、綺麗やなと思とったわ。……あんな風に、シュッとしてて儚げな感じの人は、男なら誰でも一回は憧れるんやないか」
「……へぇ。坂井涼香さん。……儚げな、シュッとした美人が好きなんや。……うちに一番足りんところやもんね」
英理の指が、凪の腕をぎゅっとつねった。
「……あ」
「凪くん、今のはばり正直でよろしい。……でもね、うちが聞きたかったんは『うちが一番』っていう嘘じゃなくて、あんたの心に、うち以外の女の人が入る隙間があったんかってことなんよ」
「いや、憧れや! ただのテレビの向こうの……!」
「憧れも浮気も一緒よ! ……もうええ。今夜は一人で、その坂井涼香さんのCDでも聴きながら寝んさい! うち、実家に帰らせてもらうわ!」
「おい、待て! 英理! 冗談やろ!?」
英理は「ふん!」と鼻を鳴らして寝室へ籠もってしまった。
♢
「お父さん、マジでバカなんじゃないん?」
「……ひ、ひかり。いつからそこにおったんや」
「最初から。お父さんさぁ、今まで何回お母さんに怒られとるんよ。なんでそんな罠に自分から突っ込んでいくん? 学習能力ゼロ?」
「……いや、ただの憧れやと言ったやろ……」
「それがダメなんやって。お母さんはね、お父さんの心の中の『たった一つの特等席』に自分が座っとるのを、何百回でも確認したいだけなんよ。それを『シュッとして儚げな美人』なんて別の名前に書き換えたら、そりゃお母さんの火山が噴火するに決まっとるやん」
「和也おじさんから聞いたけど、お父さん、昔はばり格好いいレスキュー隊員だったんでしょ? なんで恋愛になると、そんなにポンコツなん。……ほら、明日の朝は、お母さんが大好きな焼き立てのクロワッサンでも買っておいで。そしたら、うちから口添えしてあげんこともないけど」
「……おう。……すまんな、ひかり」
「あーあ、国民的女優のお母さんを嫉妬させるなんて、お父さんも大変だね。……じゃ、私は寝る。明日の朝食、楽しみにしてるからね!」




