第168話 【結局、お母さんの勝ち】
初夏。
「お父さん! ひかりのサンダル、片っぽないよ!」
髪を結び、庭へ飛び出そうとするひかりの姿に、凪は高校生の頃の英理を重ねていた。夢中になると周りが見えなくなるところまで、そっくりだった。
「ひかり、玄関に脱ぎっぱなしにしとるからや。ほら、お父さんが履かしたる」
凪は腰を下ろし、傷痕の残る大きな手で、ひかりの小さな足にサンダルを履かせた。
「お父さんの手、あったかーい!」
「おう、お前が元気すぎるからや。ほら、お母さんに帽子被せてもらえ」
キッチンから、エプロン姿の英理が麦わら帽子を持って現れた。
「ひかり、走ったらダメよ。あの坂道は危ないんやから。……ねえ、凪くん。今日みんなが遊びに来るけん、お肉多めに準備しといてね」
「わかっとるわ。……ひかり、お母さんの言うこと聞けよ。転んだら痛いぞ」
「はーい! 坂道、しゅーって行くもん!」
元気に庭へと駆け出していくひかりの背中を見送りながら、凪は立ち上がり、隣に立つ英理の肩をそっと抱き寄せた。
「……あいつ、ほんまにお前に似てきたな。危なっかしいところまでそっくりや」
「ふふっ。……でも、あの子には世界一のヒーローのお父さんがおるけん、大丈夫よ」
「凪くん。うち、この時間が好き」
「俺もや。これからもずっと、こうして笑っていような」
「ひかりー! 待ちなさーい!」 「お母さん、こっちー!」 「もう、ひかりったら!」
英理の声が庭から響いた。
♢
ある週末の昼下がり。
「英理。お前、ほんまに綺麗に歳とったな。シワの数まで、なんか……ええ感じや」
「綺麗に歳とった……? 凪くん、それどういう意味? 女優にシワが増えたって、はっきり言ったよね!?」
「あ、いや。褒めたんや。深い人生歩んできたっていう……」
「褒めとらん! あんた、デリカシーがなさすぎるんよ! 救助の時はあんなに慎重なのに、なんでうちにはそんな無神経なこと言えるん! 昔のうちは、もっとピチピチしとったって言いたいんやろ!?」
「……勝手に解釈すな! 俺はお前の今の顔が一番好きやって言うとるんや!」
「嘘よ! さっき目が泳いどったもん! もうええ、今夜は凪くんの分のご飯は作らんけん、一人でその『綺麗なシワ』に似合う渋い酒でも飲んどいて!」
「……あ、こら、英理! 待てや!」
英理は激しくドアを閉め、寝室へ籠もった。
後に残された凪は、頭を抱えた。
(なんでや。……俺、本気で綺麗やなと思っただけなのに。……女心って、炎より難しいわ……)
そこへ、五歳のひかりが、ぬいぐるみを引きずりながらトコトコと歩いてきた。
「お父さん、またお母さん怒らせたの? ……バカだねぇ」
「うるさいわ。……ひかり。お母さん、何て言ったら許してくれるかな」
「うーん。お母さん、お父さんの『大好き』が足りないの。『ひかりよりも、世界で一番お母さんが可愛い』って言えばいいんだよ」
凪はソファに深く沈み込んだ。
「……ったく。あんなに怒っても、やっぱりめちゃくちゃ可愛いんやから……参ったな。何年経っても、結局お前には振り回されるわ」
ボソリと独り言が漏れた。
「凪くん、今なんて言ったん?」
震える声とともに、ドアが数センチだけ開いた。
「……あ? いや、なんも言うてへんわ。……ひとり言や。空耳ちゃうか」
凪は慌てて視線を逸らし、ぶっきらぼうに誤魔化した。
「嘘よ、絶対なんか言った! 『可愛い』とか言ったんやろ! はっきり言いんさいよ!」
「しつこいわ。はよ戻ってこい。冷めたお茶、淹れ直したるから」
「もう、ほんまに昔から不器用なんやから……」
英理は笑いながら、凪の隣に戻った。
「お父さん、結局お母さんに負けたね」




