第167話 【三人の坂道】
ひかりが二歳になった頃――。
長崎の静かな病院の個室で、美津子は最期の時を迎えようとしていた。
窓の外には、昼下がりの街並みと、あの懐かしい坂道が遠くに見えている。
「……英理。あんた、もう泣かんのよ」
美津子は、娘の髪を力のない手でゆっくりと撫でた。
「お母さんはね、あんたがあの坂道で凪くんとぶつかった時、本当はすごく怖かったんよ。でもね、今になって思うんよ。あの事故は、神様がくれた最高の贈り物だったって。
……あんたが東京で誰にも言えない苦労をしとる間も、凪くんだけは、あんたがただの『英理』に戻れる場所を、独りで守ってくれた。
……あんたが、あの子の隣で、ただの英理として笑っとるのを見届けられて、お母さんは世界一幸せな母親よ」
美津子は、凪の傷痕が残る右手を愛おしそうに見つめた。
「凪くんが流した血も、隠しとった涙も、全部あんたへの愛だったんよ。……あんたたちはね、二人で支え合って、一つの人生を歩いとるみたいに、お母さんには見えとったんよ」
英理は、母の細くなった手を両手で包み込んだ。
「……ん……。お母さん。ありがと……。うちに、凪くんのこと、教えてくれて……守ってくれて……。
うち、お母さんの娘に生まれて……ほんまに、よかった……っ」
美津子は微かに微笑むと、枕元で立っている凪を見つめた。
「凪くん。……あんたは、うちの自慢の息子よ。……英理とひかりのことを、これからも頼んだね。
……あんたのその大きな手で、あの子たちを……ずっと、温めてあげて」
「……はい。任せてください。……母さん、ありがとうございました」
凪の声も震えていた。
その傷痕が残る右手に、美津子は最期の力を込めて自分の手を重ねた。
「……さあ、もう行きんさい。あの坂道を、三人で笑って歩いていきんさい……」
その日の夕暮れ。
美津子は、静かに息を引き取った。
♢
数日後。
英理と凪は、ひかりを連れて、あの坂道を歩いていた。
「……お母さん、見よる?
うち、これからもここで、凪くんとひかりと、ずっと幸せに生きていくけんね」




