第162話 【あの日の消防士】
夏、長崎の自宅リビング。
仕事を終えて夕食を済ませた英理と凪は、並んでソファに座り、ゴールデンタイムの全国放送特番『どうしても伝えたい「ありがとう」』を何気なく眺めていた。
画面には、制服姿で少し緊張した陽菜さんが、傍らのお母さんと一緒にステージに立ち、震える声で語りかける姿が映し出されていた。
「今から十一年前、二〇一六年十二月二十三日のことです。当時、幼稚園の年長だった私は、東京のマンション火災で逃げ遅れてしまって……黒い煙で苦しくて、怖くて泣くことしかできませんでした。もうダメだと思ったその時、煙の中から一人の消防士さんが現れて、私を強く抱きしめて外へ連れ出してくれたんです。熱さと苦しさの中で意識が遠のいて……気がついた時には、救急車の前でお母さんに抱きしめられていました」
画面がドラマ仕立ての再現VTRへ切り替わった。
黒煙に包まれた室内。その奥から、幼い少女を抱えた消防士が現れる。
「後からお母さんに聞きました。私を胸に抱えたまま、その消防士さんは爆風に巻き込まれて外へ飛ばされたそうです。そのまま地面に倒れて、意識を失ったって……」
その時、画面に当時の現場写真が映し出された。
写真の隅に記された日付を見た瞬間、英理の持つグラスが微かに震えた。
二〇一六年、十二月二十三日。
それは、英理の誕生日だった。
当時、疎遠になっていた凪から、
「俺だけは、お前の味方や」
という短いメッセージとともに、一本のネックレスが届いた日でもあった。
凪が、火災現場で大怪我を負ったことは、英理も後から聞いていた。
けれど――一年以上も意識が戻らなかったことも、その火災現場で幼い少女を救っていたことも、英理は知らされていなかった。
テレビの中で、陽菜さんが当時の報道写真を見つめていた。そこには、救急隊によって担架で運ばれていく消防士の姿が写っていた。
酸素マスクと黒い煤に覆われ、顔立ちまでは判別できない。
それでも、開いた襟元から覗く首筋の傷痕に、英理の目が止まった。
そして――右腕に残る傷を見た瞬間、英理の瞳から涙が溢れた。
「……この写真……まさか、凪くん……?」
「……あの時、うちにメッセージとネックレスが届いたあの日……あんた、一人でこんな……」
「じゃあ、あの日から……LINEに既読がつかなかったのも……」
凪は画面を凝視したまま、絞り出すように呟いた。
「……なんや、あの子……。ちゃんと生きて、あんなに大きくなっとったんか。……俺はあの時、意識が飛ぶ直前まで、あの子の泣き声が聞こえとったことだけを、ずっと覚えてたんや」
凪の目にも、涙が滲んでいた。
救出後、長い昏睡状態から生死の境を彷徨い、やがて自らの名前を名乗ることもないまま消防を去った。
それから、自分が何をしたのかも、どれほどの傷を負ったのかも、誰にも語らず胸の奥に仕舞い込んできた。
英理は背後から、凪の肩を強く抱きしめた。
「……なんで、今まで黙っとったんよ。あのメッセージを送った直後に、あんたは……。凪くん、あんたは……ほんまに、うちの、世界一のヒーローばい……!」




