第158話 【世界一の女】
ステージの階段を上り、眩いスポットライトの光を浴びた瞬間、さっきまで客席で「英理ちゃーーーん!」と声を張り上げて涙ぐんでいたマニア5人の様子が一変した。
客席から見上げるのと、わずか数メートルの距離で『本物の神之浦英理』を目の前にするのとでは、まるで別物だった。
「あ、あの、ええっと……」
「え、英理ちゃん……ほんなこつ、ほんなこつ綺麗ばい……」
ド派手な真っ赤な特攻服風Tシャツを着た男たちが、いざ本人を前にすると完全にタジタジになる。
「皆さん、手作りの素敵なTシャツを着てくださって本当に嬉しいです! ありがとうございます!」
英理が弾けたような笑みを向けると、司会者が軽快にマイクを差し向けた。
「それでは、まずは『神之浦英理ラブ』のTシャツをお召しの皆様にお伺いします! 今回の映画の感想や、今こうして目の前にいる神之浦さんに、何かお願いしたいことなどがあればぜひお聞かせください!」
5人は顔を見合わせると、震える手で交代でマイクを握りしめ、熱い想いを一生懸命に言葉にし始めた。
「あの……! 映画、本当に素晴らしかったです! 神之浦さんのあの迫真の演技、最後の切ない表情が……もう、言葉にならんくらい綺麗で、涙が止まらんかったです!」
「撮影のためにいろんな準備をされて、ストイックに挑まれたって聞いて、本当に頭が下がります! 英理ちゃんはうちらファンの誇りばい!」
「ひ、英理さんっ、握手してください……っ!」
1人目のマニアが、顔を真っ赤にして震える両手を差し出した。
「はい! もちろんです! 遠くから応援に来てくださって、本当にありがとうございます!」
「つ、次、僕です……! 慎二と言います、お、名前呼んでください……っ!」
2人目のマニアが、膝をガタガタと揺らしながら直立不動で訴えた。
「慎二くん、ですね! 慎二くん、映画を観に来てくれて、本当にありがとう!」
「ひゃぅっ……!!」
「あ、あのっ……! 僕、神之浦さんのこと、ずっとファンで……! 大好きです、結婚してください……っ!」
3人目のマニアが、極限の緊張から勢い余って直球のプロポーズを叫んだ。
その瞬間、シアター全体が「おおっ……!?」「ま、マジか……!」と波打つような動揺に包まれる。サプライズの現場に、一瞬にしてハラハラするような熱気が立ち込めた。
(ア、アカンアカンアカン!!! 何を言うとんねんお前はーーーーーっっっ!!!)
最前列の凪が変装の陰で盛大に身悶えしていると、英理はクスリと可憐に笑った。
「ありがとうございます! そんな風にまっすぐに大好きって言っていただけて、すごく嬉しいです! でも……ごめんなさい、私、長崎にどうしても忘れられない大好きな人がいるんです」
「おおおぉぉぉーーーーーッ!!(笑)」
観客から歓声と温かい笑いが巻き起こる。
フラれた男も、顔を真っ赤にしながら、
「ひ、英理さんに優しく断ってもろうた……っ。そ、それでも幸せばい……!」
と、感激したように声を震わせた。
「あ、あの……っ! 何でそんなに可愛すぎるんですか……っ!? 僕、今、もう嬉しすぎて気絶しそうです……っ!」
4人目の問いかけに、客席からもクスクスと笑いが漏れる。
「ええっ、なんででしょう(笑)!? でも、無理しないでくださいね! 映画を観てくださる皆さんの熱いパワーのおかげで、私もこうして元気に笑顔でいられるんですよ。本当にありがとうございます!」
「は、英理ちゃんに無理しないでって言われた……っ! 気をつけます……!」と、4人目の男は感激のあまりヘナヘナと膝から崩れ落ちそうになっていた。
「それでは最後に、真ん中の……とってもお洒落で、ちょっぴり怪しい変装をされているお客様、映画の感想をぜひ一言いただけますでしょうか!」
司会者から促され、最後の一人としてマイクを向けられた瞬間、凪の頭の中は真っ白になった。
(あ、あかん……! ついに俺の番が来てしもうた……っ!!)
凪は深めにかぶった帽子の庇の下、大きなサングラスとマスクに隠された顔をこれ以上ないほど下に向けた。そして、マイクを握りしめたまま、石にでもなったかのように完全に口を閉ざした。
ここで一言でも喋れば、その不器用な声と独特の関西訛りで、目の前にいる妻に正体がバレてしまう。
(大観衆の前で、「大女優の夫が重変装してマニア軍団に紛れ込んでいた」なんて知られたら、特大の大惨事や……!)
下を向いたままガタガタと震えて固まる黒ずくめの男。シアター内が「あれ? どうしたんだろう」「緊張しすぎて喋れないのかな?」と不審と好奇の混ざった空気に包まれる中、ステージの中央に立つ英理が、大きな瞳をパチパチと瞬かせた。
(……あれ? なんだろう……?)
完璧な標準語でファンに対応していた英理の胸の奥に、ふっと奇妙な違和感が芽生えた。
目の前の男は、帽子とサングラスとマスクで顔のすべてを完全にシャットアウトしている。ただの熱狂的な怪しいファンの一人として選んだはずだった。
「あの……大丈夫ですか?」
英理はマイクを持ち直すと、下を向いたまま震える黒ずくめの男に向けて、柔らかく語りかけた。
しかし、凪は沈黙を守り続けるしかない。
ステージの上に妙な沈黙が流れ、何百人もの観客が、じっと凪を見つめていた。
「映画、すごく緊張されちゃいましたか? 無理して大きな声で話さなくても大丈夫ですよ。……どこから、応援に来てくださったんですか?」
英理が一歩、凪のほうへと距離を詰めた。サングラスとマスクで覆われた顔を、大きな瞳でじっと覗き込むようにして、小首を傾げる。
その沈黙を救うように、隣にいた国分碧がスマートに歩み寄り、優しいフォローを入れた。
「本当にシャイな方なんですね。僕たちの映画を観て、言葉にならないくらい胸がいっぱいになってくださったんですよね。無理して話そうとしなくても、その熱い気持ちは十分に伝わっていますよ」
「そうですね」と、英理も国分の言葉に深く頷きながら、さらに凪に寄り添うように言葉を重ねた。
「一言だけでも、楽しかったよ、とか、そんな簡単な言葉でも私たちはすごく嬉しいので、安心してくださいね。……お話しするのが難しくても、全然大丈夫です。
言葉にならなくても、あなたが今日ここにいてくださることが、私たちにとって大きな力になります。私の映画を観てくださって……本当に、本当にありがとうございます」
英理の言葉を聞いた隣のマニアは、
「うおぉぉぉん……英理ちゃん……っ!」
と、感極まったようにおいおいと泣き始めた。
ふと、英理がマイクのスイッチをそっと切った。
客席の歓声も、スタッフの耳も届かない極限の小声で、目の前でうつむく凪だけに届くように囁く。
変装のマスクの下で凪が息を呑む。
英理は帽子の陰に隠れた顔をじっと見つめ、さらに声を落として言った。
「……実はね、私、あなたにすごくよく似た、とっても不器用で、でも誰よりも優しい人を一人知っているんです」
凪の背中が、びくりと強張った。
英理は柔らかく目を細めると、目の前の「不審なファン」へ向けて、愛おしそうに静かに言葉を付け加えた。
「もし、あなたにもそんな大好きな人が周りにいたらね……どうか、ずっと大切にしてください。……お幸せに」
(あ、あかん……っ。お前、ほんまに……ほんまに世界一の女やわ……っ)
変装の奥で、凪の目頭が熱く熱く込み上げていた。




