第157話 【一人の観客として】
半月後、映画の公開初日。
新宿の路地裏にある地下の喫茶店には、香ばしい珈琲の香りが漂っていた。
長崎から遠征してきた男たちのテーブルには、激レアな生写真や、角の擦り切れた雑誌ファイルが広げられている。
「この吸い込まれそうな強い眼差し、本気で鳥肌立つばい……」
「わかってないねぇ。このオフショットで見せる無防備な笑顔が一番の救いやろ」
男たちはお宝を見せ合いながら、熱心に英理の話を続けていた。
「ばってん今回の映画、実話ベースやろ? 精神的にも相当きつかったはずやのに……英理ちゃんの迫真の演技、ほんと頭が下がるばい」
その輪から少し離れた席で、凪は帽子の陰から静かにカップを傾けていた。
「ナギさんは、英理ちゃんのどの作品が好きなんですか?」
不意に話を振られ、凪は少しだけ黙った。
「作品というか。英理さんは、ほんまに頑張り屋さんやから。……俺は、あの人がただ笑っとるのを見とるのが、一番好きなんや」
「ナギさん……あなた、渋いですね」
男たちは顔を見合わせた。
「あ、はは……まあ」
凪は照れくさそうに笑い、残りの珈琲を飲み干した。
(英理。お前、ほんまに愛されとるな)
♢
そんなことを思いながら喫茶店を出た凪だったが、シネコンのロビーへ入った瞬間、その気持ちは吹き飛んだ。
「あかん……これはマジでヤバい……」
ロビーの喧騒の真ん中で、5人が一斉に上着を脱いだ。
その下から現れたのは、真っ赤な布地に黄色いフェルトで『神之浦英理ラブ』とデカデカと刺繍された、手作りの特攻服風Tシャツだった。
「さあナギさん、脱いで気合入れましょう!」
「あ、いや……風邪気味やから、上着は脱げんのよ……」
凪は帽子を深めにかぶり直し、必死で首を振った。
周囲の客がちらちらと5人を見ながら、そっと距離を取っていく。
「うわ、何あれ……」
「すごいね……熱狂的……」
ド派手な5人に挟まれた凪は、全身黒ずくめのまま、逃げることもできずにシアターへ向かった。
そして――。
5人のファンたちと凪は、最前列の連番席に腰を下ろした。
♢
場内の明かりが落ち、スクリーンに映像が流れ始める。
そこにいたのは、凪が知っている英理とはまるで別人だった。
物語の中で、英理演じる主人公が、震える声で何度も言葉を飲み込む。
やがて顔を上げた瞬間、その目に浮かんだ涙が、静かに頬を伝った。
台詞は少ない。
それでも、その表情だけで主人公が抱えてきた苦しさが伝わってくる。
「……ううっ、英理ちゃん、凄すぎるばい……」
隣では、男たちがハンカチを握りしめている。
凪もまた、目深にかぶった帽子の陰で込み上げてくるものを、上着の袖でそっと拭った。
長崎で「うちの食べかけ、嫌なら無理せんでよ?」なんて笑っとった英理とは、まるで別人だった。
(ほんまに凄いわ。あいつ、こんな場所でずっと戦っとったんやな)
夫としてではなく、一人の観客として。
凪はスクリーンに映る英理から、目を離せなかった。
やがて映画が終わり、場内の照明がゆっくりと戻っていく。
その時、壇上の司会者がマイクを手に取った。
「──皆様、本日は映画初日上映にお越しいただき、誠にありがとうございます。ここで皆様へ、特別なサプライズがございます」
その言葉に、場内がざわめいた。
「なんと本日、この映画初日の上映回にお越しいただいた皆様へ感謝をお伝えするため、本作の主演を務められました『神之浦英理』さん、そして『国分碧』さんがサプライズで駆けつけてくださいました!」
「……えっ!?!?」
一瞬、シアター全体が静まり返った。
「ウソでしょ……!? 舞台挨拶なんて聞いてないのに……!?」
「やばいやばい、本物!? 嘘でしょ、本当に来たんだけど!!」
「キャァァァァァァーーーーーッ!!」
現実だと理解した瞬間、シアター内に大きな歓声と拍手が巻き起こった。
重厚なドアの奥から姿を現したのは、神之浦英理と国分碧だった。
先ほどまでスクリーンの中にいた英理が、今はすぐ目の前にいる。
目深にかぶった帽子の下で、凪は固まった。
「それではお二人にお伺いします。今回の過酷な現場を乗り越えるにあたって、裏話や苦労されたエピソードなどがあれば、ぜひお聞かせください!」
司会者の問いかけに、国分碧がマイクを握り、爽やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「そうですね。やっぱり僕は、夜の激しい雨のシーンが本当に過酷でした。水が冷たすぎて足がガクガクに震えてしまって……。カットがかかった瞬間、寒さのあまり毛布にくるまって、文字通り生まれたての小鹿みたいになっていたんです(笑)」
「キャハハハ!」
「でも、その時に神之浦さんが『碧くん、これ飲んで!』って、ご自身で持ってきていたマイボトルの特製生姜湯を分けてくださったんですよ。あれが本当に五臓六腑にしみて……あの優しさが一番の心の支えでした」
「だって、碧くんが本当に寒そうだったんですもん!」
(生姜湯って……お前、家でも風邪ひいた俺にそれ作ってくれとるやつやんか……)
変装の陰で凪が一人内心でツッコミを入れていると、司会者の声が一段とトーンアップした。
「それでは! 本日の映画公開初日にお越しいただいた皆様へ、さらにスペシャルなお知らせがございます!」
「なんと! ここで客席から数名の方にステージへ上がっていただき、お二人と映画の感想をお話しいただきます! では、お二人に選んでいただきましょう!」
「うおぉぉぉぉぉぉーーーーーっっっ!!!???」
司会者の言葉が終わるか終わらないかのうちに、場内が一気に沸き立った。
凪の周囲を囲む『神之浦英理ラブ』の手作りTシャツを着た長崎のマニア5人も、一斉に手を振り始めた。
「英理ちゃーーーん! こっち見てーーーっ!」
「ナギさん! ほら、うちらの真っ赤なTシャツが一番目立っとるけぇ、ナギさんも手ぇ挙げんさいや!」
(アカン、アカンアカンアカン!!! 頼むから、みんな手ぇ下ろしてくれ……っ!!!)
凪は隣のマニアたちに肩を揺さぶられながら、椅子に沈み込もうと必死だった。
ステージの上の英理と国分は、客席を見渡していた。
「うわぁ、皆さん凄い熱気ですね」
「神之浦さん、あそこの最前列のグループ、凄くないですか?」
国分が指さした先には、真っ赤な集団がいた。
「あ! 本当ですね!」
英理もそちらへ目を向ける。
「『神之浦英理ラブ』って書いてある! すごく嬉しいです」
「司会者さん、あそこの真っ赤なお洋服を着てくださっているお兄さんたちのグループ、みんなで上がってきてもらってもいいですか? ……あ、でも真ん中の人だけ、全身真っ黒ですごく怪しい変装をされていますけど大丈夫でしょうか(笑)?」
「いいですね! ぜひお話を聞いてみましょう!」
国分も王子様スマイルで快諾し、二人の決定を受けて司会者が満面の笑みで最前列へ手を差し伸べた。
「おめでとうございます! それでは最前列の、そちらのド派手な『神之浦英理ラブ』のTシャツをお召しの皆さんと……真ん中の全身黒ずくめのお客様! ぜひ皆さんでステージの上へお上がりください!」
「うおおぉぉぉーっ!!!」
マニア5人が歓声をあげ、固まっている凪の腕をガシッと引っ張り上げた。




