第154話 【うちの旦那】
映画の撮影が始まって一ヶ月。英理は、役作りに自分のすべてを注ぎ込んでいた。
東京の広いマンションに戻っても、台本を閉じることはない。
静まり返った部屋で一人、役の感情と向き合い続けるうちに、孤独とプレッシャーが少しずつ胸に積み重なっていた。
そんな英理のスマホに、香織からLINEが届いた。
画面に並ぶ凪と和也のやり取りを読み返しているうちに、英理の口元が少し緩んだ。
「……ハハッ、凪くんったら、ほんまにアホやね」
長崎の家で食べたご飯の温もりや、あの不器用な優しさが、冷えた部屋にじんわりと染み込んでいく。
英理は小さく息を吐いてから、手元の台本に視線を戻した。
♢
監督の「カット!」の響きで、現場の空気が一気に弛緩した。
「ありがとうございました」
英理がスタッフへ頭を下げて息を整えていると、背後から声をかけられた。
「神之浦さん、お疲れ様。いやぁ、今の芝居、本当に圧倒されたよ」
振り返ると、恋人役を演じる国分蒼が立っていた。ラフな衣装のまま、人懐っこい笑みを向けてくる。
国分はわずかに距離を詰めると、周囲に聞こえない低い声で言った。
「役作り、かなり大変だって聞いたよ。毎日遅くまで頑張ってるんでしょ? もし良かったら、今日の夜、僕の行きつけの個室の店で、二人きりでゆっくり息抜きでもしない? 少しでも力になれたらと思ってさ」
(国分くん、何かっこいい声で誘ってくるんよ……。ほんま、東京の現場は油断ならんわぁ)
「国分くん、お気遣いありがとうございます! めちゃくちゃ嬉しいです。でも、二人きりはちょっとあれやけん……マネージャーさんや他のスタッフも一緒なら、ぜひ行きましょう! チームワークも深まるやろしね」
表向きは愛想のいい返事を返しつつ、
「じゃあ、みんなに声かけてみますね。次のシーンもよろしくお願いします」
神之浦は作り込んだ笑顔でペコリと頭を下げると、足早に楽屋へと引き返した。
♢
賑やかな高級焼肉店の個室。
昼間の張り詰めた撮影現場とは一転し、室内は肉の弾ける音と香ばしいタレの匂いで満ちていた。テーブルにはカルビやロース、特上タン塩が皿いっぱいに盛られている。
「国分くん、網の端っこのお肉もう食べてもよか?」
「あ、神之浦さん、それ僕が今ちょうど育ててた特上カルビですよ! でもどうぞ、たくさん食べてください」
国分が笑いながらトングでお肉をお皿に取り分けてやると、英理は「わあ、美味しそう! 国分くん肉焼くの上手やね」と表情を緩ませた。
「神之浦さん、本当に美味しそうに食べるね。誘って良かったよ」
隣に座る国分は、二人きりのデートをガードされた悔しさを隠すように爽やかに笑う。英理は肉をご飯の上に一度バウンドさせると、そのまま口に放り込んだ。
「んー! 美味しい! めちゃくちゃ美味しいわ、みんな。お肉が柔らかくて最高やね」
スタッフたちがドッと沸く中、隣の国分は爽やかな笑顔を浮かべながら、次に英理へ声をかけるタイミングをうかがっていた。
♢
国分はスタッフたちが盛り上がっている隙を見計らい、声を潜めて英理に話しかけた。
「神之浦さん。食事はみんなで賑やかだけど……この後もし良ければ、僕の車でマンションまで送らせてくれないかな。二人きりで、少しだけ……」
英理は、表情を変えなかった。
どれほど作られた美声で迫られようが、頭に浮かぶのは長崎で自分を待っている男の無骨な顔だけだった。
英理はトングを持ったまま、カメラ用の笑顔を作ると、わざと大きな声で言った。
「あ! 皆さん、ちょっと写真撮ってもよかですか? 長崎のお家で待っとるうちの人に、この美味しそうな焼肉の様子を自慢したいとです!」
「え……?」
「国分くんも『送らせて』とかコソコソ言ってないで、ほら、うちの旦那に向けて一緒にピースして!」
「……は?」
国分の口から、間抜けな声が漏れた。
二人きりのつもりだった誘いが、一瞬でスタッフ全員に知れ渡ってしまった。
スタッフたちの肩がピクッと揺れる。必死に笑いを堪えているのが、英理にも分かった。
「よし、送信完了です」
スマートフォンを置いた英理は、そのまま何事もなかったかのように肉へトングを伸ばした。
引きつった笑みを貼り付けたまま固まる国分を、彼女はもう見ていなかった。
♢
【凪からの返信LINE】
『みんなで焼肉、めっちゃ楽しそうやん! ……ん? 写真見たけど、なんかちょっと痩せた?
あんまり無理せんと肉いっぱい食べて頑張りや。俺の自慢の嫁さんへ』
「……え?」
(凪くん、国分くんっていうイケメンの隣におるのに……1ミリもヤキモチ焼かんと?)
(もう、凪くん。あんた、どこまでうちのことばっかり見とるとね。ヤキモチより先に、うちの身体のこと心配してくれるとか)
スマートフォンを胸元に引き寄せ、ぽつりと呟く。
「ふふ。今回の凪くん、100点満点やね」




