第152話 【東京と長崎】
ある日の夜も遅いリビング。
ソファに腰掛けた英理が、静かに凪の顔を見る。
「あのね、凪くん。主演映画の撮影、正式に決まったと」
「ほんまにか。主演、決まったんか……っ。英理、ほんまにおめでとう」
「それでね、相談なんだけと、今回の映画ね、実際にあった出来事を元にしとると。
それくらい重くて、自分の感情を削らんと演じ切れんような役なんよ」
「実話……?」
「うん……役作りのために、事務所が東京にマンション借りてくれたとよ。
明日から撮影が終わるまでの三ヶ月間、そこに籠もって役に没頭したいと思っとる」
「三ヶ月……東京か」
「うん。連絡も、今までみたいにはできんくなると思う。
凪くんと離れるとは、本当寂しかよ? だけど……中途半端なお芝居だけは、絶対に自分に許したくなかと」
凪は英理の肩にそっと手を置いた。
「おう、お前が納得いくまで、とことんやってこい」
「凪くん……」
「向こうにおる間は、俺の顔も家のことも全部忘れて没頭してこい。そこまでの覚悟で行くんやろ」
「忘れるわけなかやん。……でも、うん。全部投げ出して戦ってくる。
帰ってきたら、一番に美味しいご飯作ってね」
「言われんでも、三ヶ月後に帰ってきたら倒れるくらいウマいもん用意して待っとるわ」
「うん、約束ね」
♢
翌日【東京】
「本日の撮影、以上で終了です! 神之浦さん、お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした! ありがとうございました!」
スタッフたちの拍手に頭を下げ、送迎車に揺られること数十分。
英理は、東京のマンションへと帰ってきた。
静まり返ったリビングで、付箋の飛び出た分厚い台本をテーブルに広げる。
今回の役は、自分の感情の根っこまで削り取らなければ届かない重い役どころだった。
「中途半端なお芝居だけはしたくない」疲れた体を押してそのまま台本に向き合う。
「この時の、この人の絶望は、どんな声と……?」
(いかん……引っ張られすぎとる。このまま行ったら、私、呑まれる……っ)
役に飲まれそうな感覚に襲われた瞬間、英理はテーブルの上のスマホへ手を伸ばした。
(大丈夫。あんなに背中押してもらったとやけん)
膝の上でスマホを伏せ、一度だけ強く拳を握りしめる。
深く息を吐き出すと、英理はもう一度、台本のページへと視線を落とした。
♢
【長崎】
ガチャリ、と鍵の開く音がして、ドアが開いた。
「凪さ〜ん? 香織です。英理ちゃんに頼まれて様子見に来たと〜」
和也の嫁の香織が、両手に買い物袋を提げて玄関に入った瞬間、最初に感じたのは奇妙な静けさだった。
香織は首をかしげながら廊下を進み、リビングのドアを開けた。
(あれ……? おかしいな)
男の一人暮らしなら少しは散らかるはずなのに、テーブルの上はホコリひとつなく拭き上げられていた。
シンクに洗い物は残っておらず、フローリングも磨き上げられている。
香織がソファの方へ視線を向けると、ぽつんと座り込む凪の姿があった。
「あ……香織さん。わざわざすみません……」
スウェット姿のままソファに深く腰掛けた凪が、ゆっくりと顔を上げた。
眉ひとつ動かず、目の奥の光だけがすっかり消えている。
「凪さん……家はバリ綺麗にしとるっちゃけど、顔色すごく悪かよ? ちゃんと食べとる?」
香織が驚いて買い物袋をテーブルに置き、顔を覗き込んだ。
「いや、普段通りですよ。英理がいつ帰ってきてもええように、毎日家の中拭いとるだけです。
あいつ、東京で一人で役に没頭して戦っとる最中ですからね。
俺がこっちでだらしない顔しとったら、示しがつかんでしょ」
見送ってから一週間。
誰もいないリビングで一人でいると、時間の流れ方すら違って感じられた。
(全然平気やないやん。強がらんで、助けてって言えばよかとに)
香織は小さく肩を落とすと、それ以上追求するのをやめて、台所へ歩き出した。
「とりあえず、なんか作りますね。台所、借りますよ」




