第151話 【土足の女優】
その日、英理は地元長崎市内での大型特番の生放送を終え、夜遅くに帰宅した。
凪がリビングで明日の仕事の書類を整理していると、玄関の開く音とともに頼りない声が響いた。
「ただいまぁ……ばり疲れたぁ……」
リビングのドアが開いた瞬間、凪は持っていたボールペンをポトリと落とし、呆然とそちらを見つめた。
そこに立っていたのは、私服のニットに着替えてはいるものの、数分前までテレビ画面の向こう側にいた「女優・神之浦英理」そのものだった。
スタジオ用の濃いフルメイクに、プロがミリ単位で作り上げたアップスタイル。
うなじや首筋のラインがあまりにも艶っぽく、画面越しの華やかさをそのまま家に持ち込んできたような存在感に、脳の処理が追いつかない。
「なん、凪くん。そんな固まって」
「いや、なんもないわ。おつかれ」
(もしかして……うちのこの格好に緊張しとると? ふふ、そんなら、もっといじめたくなってきた)
私服のブーツのヒールをカツン、カツンと鳴らし、彼女が歩み寄ってくる。
甘い香水とメイクの匂いが、一瞬でリビングを満たした。
(おぃ英理、靴……)
聞こえないふりをしながら、凪が座るソファの前まで来ると、英理は凪の膝の間に割り込むようにぐっと顔を近づけてきた。
息が触れそうなゼロ距離。
「ねえ。テレビの中のうちと…いま目の前におるうち。……どっちにドキドキしとると?」
「……っ、近い!!」
凪は背もたれにのけぞりながら、慌てて手で顔を覆った。
「距離感考えろやアホ! そんな顔とメイクで迫られたらたまったもんやないわ! はよメイク落として髪解いてこい!」
「えー、ピンいっぱい刺さっとるけん、解いてくれんと?」
「自分で抜け!!」
真っ赤になって怒鳴る凪を見て、英理はついに耐えかねたように吹き出し、そのまま凪の胸に顔をうずめて笑い転げた。
「笑うな! …もうええ、俺は肉じゃが温め直して避難する!」
凪が英理を押しのけて立ち上がると、英理はフローリングにペタンと座り込み、上目遣いで手を振った。
「はーい、避難いってらっしゃい。お肉多めで頼むねー」
箸を準備しながらチラリとリビングに目をやると、フローリングの真ん中に、 脱ぎ捨てられた黒いヒールブーツがゴロッと転がっていた。
画面の中ではあんなに気高く笑っているくせに、家ではこれだ。
お腹をすかせて甘える妻に、凪はキッチンで頭を抱えて深々とため息をついた。




