第144話 【坂道の途中】
「ちょっと和也! 数ヶ月前にバーベキューしたばっかりやん! 『絶対帰ってこい』って、急になんなんよ!」
神之浦家の庭でトングを握り、煙の向こうで上機嫌に肉を焼く和也に向かって、英理は呆れたように声をかけた。
「よかろーが! それに俺が言い出したとやなくてな、凪が『どうしても英理ば呼んでくれ』言うて聞かんかったとよ!」
「え……凪くんが……?」
めったに自分から我がままを言わない凪が、わざわざ和也に頼み込んでまで自分を呼び寄せた。その意図を察し、英理は思わず息を呑む。
「なによそれ……それなら本人から直接言ってくれればいいのに。こっちは仕事のスケジュール調整するの、どんだけ大変だったと思ってから……」
文句を言いながらも、英理の口元は隠しきれず緩んでいた。
居間では、バーベキューの喧騒から離れた凪がひとり畳に膝をつき、正一の遺影を真っ直ぐに見つめていた。
線香の煙が細くたなびく中、ゆっくりと手を合わせる。
(正一さん。生前、一度もお話しすることができないままでした)
遺影の中から見つめ返してくる眼差しには確かな威厳があり、凪は自然と背筋が伸びる思いだった。
(ほんま、遠回りしてしまいました。
俺、これからあいつに、一生の約束をしようと思っています。
あいつが『隣におってほしい』と言うてくれるなら……正一さん。あいつを……英理を、俺にください。一生、俺の隣で守らせてください)
瞳を閉じ、心の中で強く誓う。そして、深く頭を下げた。
凪が立ち上がろうとしたとき、襖の隙間から、庭の熱気をまとった英理が顔を出した。
「……凪くん、何しよっと? お肉、焼けたよ」
凪は少し照れくさそうに鼻をかき、遺影を一瞥してから英理に向き直った。
「おう、今行くわ。……正一さんに、ちょっと大事な相談をしとったんや」
「相談? なにそれ、うちに内緒?」
凪は一瞬だけ力強く彼女の手を握り、すぐに解いて庭へと歩き出した。
「あとで教えたるわ。……冷めへんうちに、食いに行こうや」
♢
夏の夕暮れ。バーベキューの喧騒を離れ、二人はゆっくりとあの坂道を上り始めていた。
「英理。ちょっと、高台の公園まで歩かへんか」
「え、急にどうしたと? 凪くん、脚は大丈夫?」
「ああ。……少し、静かなところで話したくてな」
凪のどこか硬い声に、英理は胸の奥がざわつくのを感じた。
並んで歩く道すがら、凪は何度もポケットの中の何かに触れている。普段のぶっきらぼうな彼とは違う張り詰めた沈黙が、二人の間に流れていた。
「ねえ、凪くん。なんか、怖い顔しとるよ。和也と喧嘩でもしたと?」
「してへんわ。……ただ、ちょっと……緊張しとるだけや」
「緊張? 凪くんが?」
英理が不思議そうに覗き込むと、凪は慌てて視線を逸らした。
「……うるさいわ。ええから、黙って歩け」
セミの鳴き声が坂道に響く。
あの日、自転車で駆け下りたこの道を、今は一歩一歩、確かめるように上っていく。
ふと英理が足を止め、まっすぐに下へと伸びる坂道を振り返った。
神之浦家の屋根越しに見える一本道の途中に、あの日と変わらない場所がある。
「……あそこ、あの日凪くんがうちを抱きとめてくれた場所やね」
「おう。あの時のお前の必死な顔、今でも覚えとるわ」
「もう、その話はよかて……。ねえ、本当にどうしたと? 公園まで、まだ結構あるよ?」
「ええんや。今日中に、言わなアカンことがある気がしてな」
「……英理」
「……え?」
凪は何も言わず、英理の細い手を力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで握った。
「……凪くん、手、熱かよ」
「坂道が急やからや。……ええから、離すなよ」
「凪くん、緊張しとる?」
「しとるわ。……お前の方こそ、手が震えとるぞ」
「だって、こんな風に歩くの、初めてやもん」
高台の公園へ続く最後の階段。凪は繋いだ手にギュッと力を込めた。
その先に待つ「答え」を予感してか、英理もまた、服の上から胸元のネックレスを強く握りしめていた。
二人は一言も交わさぬまま、最後の階段を上りきった。
♢
黄昏時。長崎の街を一望できる高台の公園。
凪は繋いでいた手を一度離し、正面から英理の瞳を真っ直ぐに見つめた。
夕日に照らされた彼の顔には、もう迷いはない。
「……英理。19年も待たせて、ほんまにごめん」
凪はゆっくりとポケットから小さなリングを取り出した。
「……俺の人生、全部お前にやる。だから、お前の人生、俺に預けてくれへんか」
凪の声は低く、揺るぎない響きを帯びていた。
息を呑み、一度強く目を閉じると、意を決したように見開く。
「英理。俺と、結婚してくれ。……一生、俺がお前を守るから」
英理は溢れ出す涙を拭おうともせず、凪の胸に飛び込んだ。
「遅すぎるよ、凪くん! ほんっとに遅い……。でも……嬉しい。バリ嬉しか……! ずっと待っとったとよ……!」
凪は不器用な腕で、折れそうなほど強く英理を抱きしめた。
抱き返してくる英理の手が、背中で必死に服を掴んでくる。
坂の下には、長崎の街にぽつぽつと灯り始めた生活の明かりが広がっていた。




