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第138話 【第4章 プロローグ『東京としまなみ』】

2023年、秋。都内にある大規模撮影スタジオの入り口には、早朝から異様な緊張感が漂っていた。


一年以上の沈黙を破り、国民的女優・神之浦英理が現場へ戻ってくる。ロケ車のドアが開き、彼女が地上に第一歩を踏み出した瞬間、白いフラッシュが一斉に炸裂した。


「神之浦さん、復帰おめでとうございます!」「休養の理由は体調不良ですか!?」


殺到するマスコミの揉み合いを背に、英理は足を止めることなくスタジオの自動ドアへ向かう。

すれ違いざま、顔なじみの老記者と目が合うと、彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。


「お待たせしました。また、頑張るけん」


長崎の響きを残した低い囁きを残し、彼女は光の渦の中へと消えていく。



画面の中の英理は、凛として美しく、時に誰も寄せつけないほどの寂しげな眼差しを見せる。大型歴史大作の主演を経て、CMや巨大広告で彼女の姿を見ない日はない。


だが、東京から八百キロ離れた愛媛の小さな福祉施設で、凪はその狂騒とは無縁の時間を過ごしていた。


「凪さん、この棚、少しガタついとるんよ」


「おう、今直すで。よし、これで大丈夫や。無理せんと使いな」


作業服の袖を捲り、棚を叩いて具合を確かめる。

仕事が終われば防波堤に座り、缶コーヒーを片手に暮れゆく瀬戸内の海を眺める。


ポケットのスマホが短く震えた。


『凪くん、今終わったよ。今日の夕日は、愛媛も綺麗だった?』


凪は画面を見つめ、短い言葉を打ち返す。


『おう。こっちも綺麗や。今日のお魚は何食べた?』



月に一度、数日だけの休暇。


深く帽子を被り、メガネをかけた英理が、新幹線と特急を乗り継いで今治駅のロータリーに降り立つ。


ロータリーの隅、手入れの行き届いた中古の小型車の横に立つ凪の姿を見つけた瞬間、彼女の足取りが弾んだ。


「凪くん!」


「おう。お疲れさん、遠かったやろ。乗りな」


助手席のドアを閉めた途端、英理は「ふぅーっ」と深く息を吐き、シートに深く身体を沈めた。


「この車に乗ったら、やっと息ができる」


走り出した車窓から流れる島々の影。潮の匂い。凪の握るハンドルの規則的な動きを感じながら、英理は間もなく安らかな寝息を立て始めた。


地元の小さなスーパーで買った安い魚と野菜。凪の部屋で囲む、少し味の濃い肉じゃが。


眩しいスポットライトの届かないこの静かな場所だけが、ふたりが本当の自分に戻れる場所だった。

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