第136話 【ボロボロの二人が選んだ幸せ】
日付がすっかり変わり、深夜。
しまなみからの長い道のりを走り抜けた車が、神之浦家の前に静かに止まった。
和也に促され、凪は十数年前と変わらない廊下を進む。階段のきしむ音が、静まり返った家の中に響いた。
二階の奥。固く閉ざされたドアの前で凪は立ち止まり、一呼吸置くとドアノブを回した。
月光も届かない薄暗い室内。
ベッドの端で、毛布をかぶって丸まっている小さな影があった。
「……英理」
凪の低い声に、毛布の影がびくりと跳ねる。
「兄ちゃん?……嫌。誰も入ってこんで……。もう、誰にも会いたくなか。……出てって……」
毛布の奥から漏れる、くぐもった声。
凪はベッドの脇に膝をついた。あの日、坂道で受け止めた時と同じように、毛布の上からその肩を力強く掴む。
「英理。俺や」
息を詰める気配。
「……英理」
「……嘘。嘘よ。凪くんは、もうおらん。…うちがあいつば裏切ったとに。あんな男と一緒になって……凪くんの二十年ば、泥足で踏みにじったんよ。凪くんがうちに来てくれるわけなか……」
「裏切ってへん。あの日お前を抱きとめた時から、俺の味方はお前だけや。
お前がどう思おうと、俺はお前の味方をやめられへんかった」
英理がゆっくりと毛布を撥ねのけた。
涙に濡れ、光を失った瞳と削げた頬。
目の前に座る凪を、信じられないものを見るように見つめている。
「……凪くん?……ほんとに、凪くん……? 夢じゃなかと……?」
「おう。遅くなって、ごめん」
英理の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい……凪くん、ごめんなさい……! うち、あんたが命がけで守ってくれたとに、自分から逃げ出して……。叱ってよ! なんであんな奴のところに行ったかって、怒鳴ってよ……! そうしてくれな、うち、自分が許せんのよ……!」
「叱るわけないやろ。俺とお前が、遠回りしただけや。俺だって黙って消えて、お前を独りにした。悪いのは俺の方や」
「違う! 凪くんは悪くなか! その顔の火傷も……うちを守るためにこんなボロボロになって……。
うち、最低や……凪くんの隣におる資格なんて、どこにもなかと……!」
凪は何も言わず、震える英理を強く腕の中に引き寄せた。
すり減った作業着の生地越しに、彼女の小さな身体が激しく揺れている。
「資格なんてどうでもええ。お前が女優でも、ただの泣き虫でも……俺はお前の隣におりたいんや。それが俺の幸せや」
「凪くん……。うち、また、あんたの隣で笑ってもよかと……? こんなにボロボロで、全部失くしてしもたうちでも……よかと……?」
「いいに決まっとるやろ。失くしたもんなら、また二人で一から拾い集めたらええ。
俺がここで、何回でも抱きとめたる。
……だから、もう泣くな。俺もおる、和也もおる、ナオもおる。お前は独りやない」
英理は凪の作業着を胸元でぎゅっと掴み、声を上げて泣いた。
「……凪くん……。もう、どこにも行かんで……。絶対に、離れんといて……」
「ああ、約束や。もう二度と、お前の手は離せへん」




