第135話 【俺の答えは、お前だけなんや】
しまなみ海道の多々羅大橋を遠くに望む、夕暮れの防波堤。
凪は仕事終わりの体に潮風を受けながら、一人腰を下ろしていた。
足元には使い古した軍手と、一口も付けていない麦茶のペットボトル。
「……凪」
聞き覚えのある、けれど二度とここで聞こえるはずのない声。
凪は息を呑み、ゆっくりと首を巡らせた。
そこには、汗と焦燥にまみれた和也とナオが、肩で息をして立ち尽くしていた。
「和也……それに、ナオまで」
慌てて立ち上がろうとした凪は、不自由な右足に重心を奪われ、一瞬よろめいた。
立ちすくむ二人の顔を、凪はただ見つめることしかできない。
少し大人びた和也の佇まいと、今にも涙が溢れそうなナオの瞳。
「……久しぶりやな。二人とも、全然変わらんな」
凪は引きつった微笑みを浮かべ、必死に声を整えた。
「お前ら、なんでここに……。誰にも言わんかったはずやろ」
「佐伯さんに聞いたんと。東京まで行ってな」
和也の声は掠れ、肩が激しく上下していた。
「佐伯さんか……。あの方には、最後まで世話になりっぱなしやな」
「でも、なんでそこまでして俺を探したんや。わざわざ東京まで行って、こんな遠いとこまで……」
「お前が黙って消えたけんやろが! 探すに決まっとるやんか!」
和也が一歩踏み出す。
「お前……そんなボロボロの体で、こんなところまで逃げてきて……」
「ごめん。……でも、俺はもう……今はこうして静かに暮らさせてもらうのが一番なんや」
その言葉が終わらないうちに、ナオが激しく叫んだ。
「静かに暮らす? そんなんと許すわけなかよ! 凪くんがここで海ば眺めとる間に、英理がどうなっとるか分かっとるん!?」
「……英理は、幸せになったんやろ? 桜庭っていうのと、家族になって……」
「幸せなわけなかろが! 英理はね、あんたが自分ば捨てたと思っとると! あんたば裏切った自分ば責めて、飯も食わん、水も飲まんと、実家の部屋で死ぬのを待っとるとよ! 今のあいつは女優の神之浦英理なんかじゃない! あんたに甘えてばかりだった、あの弱くてバカな『神之浦英理』に戻って、ずっとあんたを呼び続けてボロボロになっとるとよ!」
凪の息が止まった。
「……死ぬ……? 英理が……?」
「凪、頼む」
和也が凪の作業服の肩を、砕かんばかりの力で掴んだ。
「あいつば救えるのは、もうお前しかおらんのよ。
お前がどんだけ自分ば消そうとしても、あいつの心にはお前しかおらん。
……一緒に長崎へ帰ろう。
あいつば叱ってやってくれ。あいつば、もう一度抱きとめてやってくれ……!」
赤く染まる瀬戸内の海。三人の影が防波堤に長く伸びていた。
「……あいつ……まだ、泣いてんのか……」
凪の目からぽろりと溢れた雫が、防波堤のコンクリートに小さなシミを作った。
♢
二人の足音が夕闇に消えても、凪は立ち尽くしたまま動けなかった。
この数年、自分に言い聞かせてきた。
「俺は過去の人間だ」と。白石さんの優しさに甘え、穏やかな日常を守ることが自分にとっての正解なのだと、自分を騙し続けてきた。
(飯も食わん、水も飲まんと……死ぬのを待っとる)
ナオの声が頭の中で何度も響く。
凪は己の無骨な手のひらを見つめた。
誰かを傷つけないために姿を消すことが「守る」ことだと思っていた。
だが、英理が泣いている世界で自分だけが別の幸せを装うことなど、最初からできはしなかったのだ。
十七歳のあの日、坂道で受け止めた体温。
俺の居場所は、あいつの隣以外にどこにもない。
凪は足元の軍手を拾い上げると、ゆっくりと振り返った。
遠くに見える施設の明かりに深く一礼し、和也たちの待つ車へ向かって力強く歩き出した。




