第132話 【最高傑作の背中】
次の日。
和也は実家を訪ねてきたナオと二人、生垣の陰で声を潜めて話し込んでいた。
「和也くん、英理はどうなん。……まだ、部屋から出てこんと?」
ナオの顔には、親友を想う焦りが浮かんでいる。
「おう。飯もろくに食わん。時々、部屋から啜り泣く声が聞こえてくるばってん、俺がドア叩くとピタッと止まる。
あいつ、自分ば裏切った男のことより、もっと遠いところにおる『誰か』ばずっと探しとるごたる」
和也は苛立ちをぶつけるように首の後ろを掻きむしった。
「……凪くんのことね」
「あの火災で大怪我して、やっと退院したと思ったら、あいつ俺らに何も言わんと消防署ば辞めてしもうた。
東京の家も引き払っとるし、どこへ行ったとか、生きとるとかさえ、誰にも分からんとよ」
ナオは唇を噛み締め、空を見上げた。
「英理は、凪くんが自分ば拒絶して、わざと姿ば消したと思っとる。
あの日、ネックレスが届いて以来、一度もLINEの既読がつかんかったことが、英理の心ば殺してしもうたとよ。
……あんなに日本中から愛されとるのに、たった一人の既読がなきゃ、英理にはこの世界が真っ暗に見えとるとやろね」
「ナオ、あいつにどう声をかけてやればよか? 『凪はお前の前から消えたけん諦めろ』なんて、口が裂けても言われん。
でも、凪自身が自分ば消そうとしとるとば、俺らはただ見とるしかないんか……」
和也の拳が、悔しさに震えていた。
「和也くん。私、もう一回だけ英理と話してみる。親友として、英理の心をひっぺがしてくるわ。
凪くんがどこにおろうが、あんたは『神之浦英理』として、ここで生きていかんばいかんとよ、って伝えてくる」
「……頼むわ、ナオ」
♢
ナオは手にしたお盆を握りしめ、二階への階段を一段ずつ上がった。
英理の部屋のドアの前で一度だけ深く息を吐き出し、返事も待たずにノブを回す。
「英理。ナオよ。入るよ」
遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋。ベッドの端で背中を丸めて横たわっている影があった。
「……ナオ、ごめん。今は、誰とも話したくなかとよ……」
「誰とも話したくない? そういうわけにはいかんとよ。
英理あんた、最近鏡見たん? ばりボロボロやん。あんなヘラヘラした男一人のせいで、なんであんたがそこまで自分ば粗末にせんばいかんとよ!」
ナオはわざと大きな音を立てて、サイドテーブルに食べかけのゼリーを置いた。
「……桜庭くんのことは、もうよかとよ。……ただ、もう……どこを見ても、誰も信じられんとよ。凪くんも、うちば捨ててどこかへ行ってしもうた。うちは、独りとよ。あの日から、ずっと……」
英理がようやく顔を上げた。瞳は赤く腫れ、胸元ではあのネックレスが弱々しく光っている。
「英理、よく聞きんね。あんたがここで消えたら、凪くんが命がけで守ったものは何になると? あいつの十七年ば、無駄にするつもりね!」
ナオの言葉に、英理はたまらず顔を覆った。指の隙間から、震える声が漏れ出す。
「……違うとよ、ナオ。うちは……最低なことばしたとよ。
凪くんが命がけで守ってくれたとに、うちは東京の冷たさに負けて、あんな偽物の光に逃げて……あいつの十七年ば裏切ったんは、うちの方たい!」
英理は胸元のネックレスを壊れそうなほど強く握りしめた。
「凪くんがどんな思いでこのネックレスば送ってくれたか考えもせんと、自分の寂しさばっかり優先して……。
だから凪くんは愛想ば尽かして消えたとよ。当然たい。うちみたいな女、もう二度と見たくなかはずもん……」
「英理……」
「……叱ってほしい。凪くんに、ばり怒鳴られて、叱ってほしいと。『お前、何やってんねん』って。
そう言ってくれな、うち自分ば許せんとよ……! こんな汚い心で、凪くんが守った坂道の思い出まで汚してしもて……。
うち、どうすればよかとか、もう分からんとよ!」
英理はナオの膝に顔をうずめ、声を上げて泣き崩れた。
ナオは何も言わず、激しく揺れる英理の肩を、あの日坂道で凪がしたように、静かに何度もさすり続けた。




