第129話 【孤独の頂点で呼ぶ名前】
数日後、披露宴の打ち合わせがどうしても進まないことに焦りを感じた英理は、連絡もせず、仕事帰りにそのまま桜庭のマンションを訪ねていた。
「桜庭くん、夜分に驚かせてごめんね。お父さんから式のことで連絡があって、どうしても……」
そう言いながら玄関に踏み込んだ瞬間、英理の動きが止まった。
空気の中に漂う、自分のものとは違う、甘ったるい香水の匂い。
そして、無造作に放り出された、派手なラメ入りのシュシュ。
「……あ、英理さん!? なんで急に……。いま、ちょっと部屋が散らかってて」
奥から出てきた桜庭は、明らかに動揺している。シャツのボタンは掛け違えられ、いつも完璧なはずの髪は乱れていた。
「ごめん。式の相談、したかったんだけど……」
英理の視線は、リビングのソファの端に置かれた見覚えのない小さな女性用バッグに注がれる。
「あ、それ……事務所のスタッフが忘れ物したんだよ。さっきまで打ち合わせしててさ。
……あはは、そんな怖い顔しないでよ、英理さん。僕を疑ってるの? 冗談はやめてよ。僕たちの関係に、そんな疑念は不釣り合いだよ」
桜庭は、わざとらしく英理の肩を抱き寄せようとする。けれど、その指先からは嘘を隠そうとする焦りが伝わってきた。
調子のいい言葉を並べる男の顔を見ていると、胸の奥から薄暗い冷気がせり上がってくるようだった。
「もうよかとよ、桜庭くん。今日は……もう帰るけん」
「えっ、相談は? ……なんだよ、せっかくのムードが台無しじゃん」
不機嫌そうにスマホを取り出し、誰かにメッセージを打ち始める桜庭。
部屋に充満する女の気配から逃げるようにマンションを出た英理は、服の下のネックレスを強く握りしめた。
(凪くん。助けて……。うち、また間違えそうになっとる。あんたのおらん世界は、こんなに偽物ばっかりとよ……)
♢
翌日、主演ドラマのクライマックスシーンの撮影。
朝から酷い眩暈と吐き気に襲われていた英理は、誰にも悟られぬよう完璧な女優を演じ続けていた。
けれど、ライトの熱気にさらされ、カメラの前に立った瞬間、視界が急激に歪む。
「はい、英理さん入ります! ……本番、スタート!」
監督の声が遠くで響く。
英理はセリフを口にしようとしたが、声が出ない。
言わなきゃ……セリフを、言わなきゃ……。
冷たい汗が背中を伝い、膝の震えが止まらない。
「……凪、くん……」
無意識に漏れたのは、今の恋人の名ではなく、あの男の名前だった。
急速に視界が反転し、天井がひっくり返っていく。
「おい、カメラ止めろ! 誰か! ストレッチャー持ってきて!」
「救急車だ……! 早く救急車呼べ!!」
周囲の悲鳴を遠くに聞きながら、英理の意識は深い闇へと沈んでいった。
♢
数時間後。都内の病院のベッドで目を覚ました英理の傍らにいたのは、心配そうな顔をしたマネージャーと、仕事の合間に駆けつけたらしい桜庭だった。
「英理さん、大丈夫? 過労だってさ。……でも困るよ、君が倒れたら、来週予定してた入籍記念特番の打ち合わせが全部ズレちゃうじゃないか。
僕のスケジュール、真っ白になっちゃうよ」
桜庭が開口一番に口にしたのは、英理の体調への気遣いではなく、自分の仕事の心配だった。
どこまでも自分本位なその瞳を見つめていると、英理の視界はじわじわと涙で滲んでいった。
「桜庭くん。もう、よかとよ。帰って」
「えっ、何それ。せっかく心配して来たのに。
……あ、もしかしてまた『あの人』のこと考えてる? 倒れる直前に呼んでたそうだね、変な名前。
不気味だよ、英理さん。いい加減、僕を見てよ」
桜庭の軽薄な怒りを背に、英理は壁を向いて静かに瞳を閉じた。
服の下のネックレスが、熱を持った肌にひんやりと触れる。
(凪くん……。ごめんね。……うち、こんなにボロボロにならんと、あんたの隣がどれだけ温かかったか、思い出せんかったとよ……)




