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第128話 【漂う違和感】

二〇二二年、春。白石からの最後のメッセージから数ヶ月が経ち、瀬戸内は目に眩いほどの新緑の季節を迎えていた。


あの日、彼女を送り出してから、凪の日常は驚くほど静かで規則正しかった。


朝、誰よりも早く施設へ向かい、海風を通すためにすべての窓を開け放つ。


入所者の老人たちの車椅子を一台ずつ丁寧に磨き、タイヤの空気圧を確かめる。


「凪さん、今日もええ天気じゃね」


「ほうやね、タエさん。今日は散歩、ちょっと遠くまで行こうか」


今の凪の口から出る言葉は、瀬戸内の風景に静かに溶け込んでいた。


夕暮れ時。仕事が終わると、凪は一人で海岸沿いの防波堤に座り、海を見つめるのが日課となっていた。


手元には、もう彼女からの返信を待つスマホはない。ポケットにあるのは、軍手と仕事で使う小さなメモ帳だけだった。


(……これで、ええんやな)


♢


一方、結婚に向けた準備が進む中、港区にある英理のマンションを訪れた桜庭は、いつになく得意げにスマホの画面を指で弾いていた。


「ねえ英理さん、見てよこれ。僕のファンの子たちがさ、嫉妬で大荒れなんだよね。過去最高の炎上だよ」


画面に並ぶ英理への批判的なコメントを、桜庭は自分の人気を確かめるように楽しそうに読み上げてみせる。


「『英理が自慢げでムカつく』だってさ。みんな僕のことが好きすぎて、英理さんに嫉妬しちゃってるんだよ。

まあ、僕のファンもなかなか大物でしょ?」


「……ごめん。うちのせいで、桜庭くんのファンば悲しませてしもとるね」


「謝ることないって! むしろ誇っていいよ。僕みたいな人気の男の隣に立つには、それくらいの洗礼は当たり前なんだから。

……あ、でもさ、明日の記者会見ではちょっと申し訳なさそうな顔しといてね? その方が健気に僕を支える『年上の恋人』って感じで、ファンの子たちも納得するからさ」


自分のファンを鎮めるために、彼女に引き立て役を演じさせようとする無神経さに、英理は胸の奥が冷えていくのを感じていた。


英理の脳裏に、闇の中に消えた凪の姿が重なる。


「桜庭くん。ファンば怒らせるとが、そんなに楽しいと?」


「楽しいっていうか、快感だよね。僕たちの結婚で日本中がざわついてるんだからさ。じゃあ、僕これから生放送だから。会見の演技、よろしくね」


桜庭は満足そうに、軽い足取りで部屋を後にした。


♢


数日後。結婚に向けた具体的な打ち合わせという名目で、桜庭は大量の資料をテーブルに広げていた。


「ねえ英理さん、披露宴の演出なんだけどさ。僕のグループの曲をBGMにして、最後は僕がソロで歌いながら君を迎えに行くっていうのはどう? ワイドショーの絵面としても最高でしょ」


コンサートの企画でも練るように盛り上がる桜庭の隣で、英理は分厚い式場のパンフレットをめくりながら、淡々と頷く。


「……うん、桜庭くんがよかと思うなら、それでよかとよ」


「またそれだ。英理さん、さっきから全然やる気ないよね。……あ、もしかして衣装のこと気にしてる? 安心してよ、僕の知り合いのスタイリストに、一番若く見えるドレス選ばせてるから」


ふとした瞬間に、彼は自分たちの年齢差をからかうように口にする。


胸の奥に、冷たいシコリがひとつ残った。

その時、桜庭のスマホがテーブルの上で低く震えた。

画面には短いメッセージが次々と浮かび上がる。


『次はいつ会える?』

『昨日の夜、楽しかったね』


チラリと見えた文字に、英理の呼吸がわずかに詰まる。

けれど桜庭は、慣れた手つきでスマホを伏せ、何食わぬ顔で会話を続けた。


「……桜庭くん。今、誰から?」


「え? ああ、ただの仕事の連絡だよ。メンバーが『結婚おめでとう』ってうるさくて。

それより新居の場所だけど、僕の事務所に近いタワーマンションがいいな。

世田谷はちょっと、落ち着きすぎてて僕らには不釣り合いだし」


不釣り合い。

かつて棟方が口にした言葉が重なり、英理の視界がかすかに揺れた。


自分以外の誰かの存在を隠そうともしない、その雑で無頓着な態度に、喉の奥が苦しくなる。


「……ねえ、桜庭くん。……うちのこと、本当に好きと?」


「当たり前でしょ。国民的女優の英理と結婚できる男なんて、僕くらいしかいないんだから。……あ、ごめん、電話。ちょっと外に出て電話取ってくるね」


スマホを握りしめ、リビングから出ていく桜庭。


一人残された部屋で、彼が去ったあとに漂う甘すぎる香水の匂いに、英理は静かに目を閉じた。

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