第126話【また笑うための別れ】
冬。
しまなみの穏やかな海を望む施設で、その日常は突如として残酷な音を立て崩れ去った。
凪が車椅子を点検していた時、食堂の方から食器が割れる鋭い音が響いた。
駆けつけた凪の目に飛び込んできたのは、床に倒れ込み、胸を押さえて苦しそうに喘ぐ白石の姿だった。
「糸音さん! ……糸音さん、しっかりしろ!」
凪は咄嗟に彼女を抱き起こす。
かつて現場でいくつもの命を救ってきた身体が、思考より先に動いていた。
気道の確保、呼吸の確認、脈拍のチェック。
けれど、指先に触れる彼女の肌の冷たさと、唇に浮かぶ紫色を目にした瞬間、凪の動きが止まった。
かつて現場で何度も目にしてきた、死の影。
「……あ、……な……ぎ……さん……」
白石の焦点の合わない瞳が焦りを探すように彷徨い、弱々しく凪の服を掴もうとして、そのまま力なく床へ落ちた。
呼吸を確保し、スタッフへ連絡させ、AEDと救急隊を指名する——頭の中では瞬時に手順が組み上がっているのに、指先からサーッと体温が引き、胸が締め付けられて手が追いつかない。
(なんでや。なんで指が動かんのや!)
かつての凪なら、コンマ数秒で冷徹に判断できていたはずだった。
けれど今、腕の中にいるのは見知らぬ傷病者ではなく、自分にとってかけがえのない女性だった。
失うことへの恐怖が、元救急隊員としての冷静さを容赦なく削ぎ落としていく。
「糸音さん、目を開けろ! ……誰か! 救急車や、早く!」
叫ぶ凪の声が、静かな施設内に響き渡る。
「……嘘やろ。……俺、また守れんのか。こんなに近くにおるのに!」
凪は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
発信履歴の一番上にある名前を叩く。
耳元で鳴り響く無機質な呼び出し音が、やけに長く感じられた。
「……出ろ、相良。頼む、出てくれ……!」
汗で滑りそうになる端末を、耳へ強く押し当てる。
やがて通話が繋がった瞬間、凪は掠れた声で叫んでいた。
「……相良さん、頼む、助けてくれ……! 糸音さんが、糸音さんが……!」
♢
遠くから重低音が近づき、ヘリコプターの風圧が施設の庭の木々を激しく揺らした。
凪からの報せを受けた相良は、提携病院から緊急搬送のヘリを手配し、自らも同乗して駆けつけていた。
「糸音! 糸音、聞こえるか!」
下降したヘリから飛び降りてきた相良は、すでにストレッチャーに乗せられていた白石のもとへ一直線に駆け寄る。
手に握られた医療機器を操作する彼の瞳は、かつての恋人を見るものではなく、冷徹な医師のそれだった。
凪は激しい風圧の中に立ち尽くし、その光景をただ見つめていた。
相良がバイタルを確認し、点滴の速度を調整し、同行した看護師へ矢継ぎ早に指示を飛ばす。
その手際に一切の無駄はない。それは、今の凪がどれほど望んでも手に入らない「救う力」だった。
「……凪さん」
作業の手を止めず、相良が一度だけ凪に視線を向けた。
その顔には、以前のような皮肉めいた笑みはない。
「あなたの判断で、すぐに連絡をくれたおかげで繋がりました。でも、ここから先は僕の仕事です」
「…………」
「彼女を東京へ連れて行きます。あっちの大学病院に、彼女の病状に特化したチームを待機させてある。……いいですね」
それは問いかけではなく、決定事項だった。
凪は、酸素マスクを装着され、微かに眉を寄せている白石を見つめる。
彼女がこの島で望んだのは、諦めて死を待つことではなく、凪とともに生きることだった。
けれど、その明日を繋ぎ止めるためには、彼女を自分の腕の中から放し、東京へ送り出すしかない。
「……相良さん」
凪は、震える声で言葉を絞り出した。
「……あいつを、頼みます。生かしてやってくれ。また笑えるように、してやってくれ……」
「分かっています。約束します」
相良は短く答えると、ストレッチャーを素早くヘリの機内へと押し込んだ。
ローターの回転音が一段と高まり、機体がゆっくりと浮上していく。
遠ざかっていく爆音を見上げながら、凪は自分の手のひらを爪が食い込むほど強く握りしめた。
大切なものを守りたいと願うたびに、自分はいつも「手放すこと」しかできない。
「……糸音さん……。死んといてくれ……。また、ここで笑おうや……」
風が去った誰もいない庭で、凪は静かに膝をついた。




