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第125話 【これからの私たちのために】

数日後、白石は一時的に容体が安定し、慣れ親しんだしまなみの家へ戻ることになった。


相良は東京での調整のため、「必ずまた来る」と言い残し、一足先に都内へ戻っていった。


♢


瀬戸内の風は穏やかで、ほんのりと潮の香りを含んでいた。


「凪さん、ごめんね。結局、私のわがままを通しちゃって」


縁側に腰掛けた白石が、庭の落ち葉を掃いていた凪に声をかける。

少し痩せたその肩に、午後の柔らかい光が落ちていた。


「なにがや。あんたがおりたい場所におるのが一番やって、あの先生も納得して帰ったんやから。気にするな」


凪は手元を止めずに答え、不器用ながらも彼女のために煮込んだ地元の野菜のスープを器に盛った。


「はい。今日はこれくらい飲めるか」


「うわ、凪さん。味付け、また一段と薄くなった?」


「……うるさいわ。あんたの体のこと考えとるんや。文句あるなら、早う元気になって自分で作れ」


「ふふっ、そうね。頑張って、また台所に立ちたいな」


スープをすする白石の唇に、かすかな赤みが戻っている。


「……ねえ、凪さん。相良くんが言ってたこと、時々考えちゃうの。私、本当にここにいていいのかなって」


凪は手を止め、白石の細い指先に自分の手をそっと重ねた。


「俺はな、ずっと正しい生き方を探して生きてきたような気がする。

でもな、糸音さん。あんたが今ここで笑っとるなら、俺はそれで十分や。相良さんは命を繋ぐ医者やけど……俺はただ、あんたの傍におりたいだけやから。変な気遣いはすんな」


夕暮れ時、瀬戸内の海がゆっくりと黄金色に染まっていく。

二人は並んで、落ちていく陽を静かに見つめていた。


♢


穏やかな日常を重ねる中で、白石の体調は少しずつ持ち直していった。


久しぶりに二人で外へ出た日。

しまなみ海道の多々羅大橋を遠くに臨む、海岸沿いの遊歩道を歩いていた。


「凪さん、見て。あの橋、空に向かって伸びてるみたい。やっぱり、こっちの海は色が違うね」


白石が手すりに寄りかかり、潮風に髪をなびかせている。


「おう、ほんまやな。愛媛側から見る海は、一段と穏やかに見えるわ。島々が庭の石みたいに並んどるしな」


「ふふっ、例えが独特。……凪さん、東京にいた頃、こんなふうに空の下で海を眺めること、あった?」


「いや……ないな。あそこにおった時は、空を見る余裕なんて微塵もなかったわ。

常に誰かの呼吸を気にしとるか、テレビの中の誰かが無事か祈っとるか……自分の足がどこの地面を踏んどるかも、分からんようになっとった」


「そっか。……ねえ、凪さん。今、自分の足元、ちゃんと見えてる?」


白石は小さく笑いながら、凪の不自由な右足の横に、自分の靴をピタリと揃えた。


「おう。あんたが滑らんか、それだけはしっかり見えとるわ」


「もう、これでもちゃんと気をつけて歩いてるのに。

でも、嬉しいな。今の凪さんは、ちゃんとここにいてくれてる気がして」 


♢


道沿いにある小さな見晴らし台のベンチに、二人は腰を下ろした。


「はい、これ。道の駅で買った伊予柑ジュース。喉乾いたでしょ」


「伊予柑か。こっちのんは味が濃いからな」


「あ、ちょっと待って。蓋が硬い……。凪さん、開けて?」


「貸してみ。……ほら、開いたぞ」 


凪が差し出したボトルを受け取る時、白石の指先が温かく触れた。


「ねえ、私ね、さっきの橋を見て思ったの。あなたの過去を全部埋めることはできないかもしれないけれど、このしまなみの景色から、また新しい思い出を増やしていけたらなって」


「思い出、か」


凪は遠くの水平線を見つめ、静かに息を吐いた。


「糸音さん。あんた、ほんまに俺でええんか。俺はこれからも、要領の悪い生き方しかできんぞ」


「不安になったら、またこうして風に当たりに来ましょうよ。

で、どちらが歩くの遅いかで喧嘩すればいいじゃない」


白石は声をひそめて笑い、凪の肩にそっと頭を預けた。


「おう。それも、悪くないな」


「……ねえ、お腹空いた。お昼、今治の方まで何か食べに行かない?」


「あんた、さっき大福食べとったやろ」


「それはそれ! ほら、行こう」 


立ち上がる白石の背中を追いかけながら、凪の口元に自然な笑みが浮かんでいた。 


♢


その帰り道、二人は今治市内の小さな家電量販店に立ち寄っていた。


「ほら、凪さん。いつまでも連絡が施設の固定電話だけじゃ不便でしょ。これ、使いやすそうじゃない?」 


白石が楽しそうに並んでいるスマートフォンを指差す。


凪は、色鮮やかな画面が並ぶ売り場を前に、どこか気後れするように立ち尽くしていた。 


「スマホなんて、いらんわ」


あの日、マンションの火災現場。

命がけで少女を救い、同時に英理との最後の繋がりだった端末を灰にした日の記憶。


スマホを新しく持つことは、過去の面影を完全に手放すことのように思えて、心のどこかで躊躇いがあった。


「凪さん」


白石はその迷いを見透かすように、凪の腕にそっと手を添えた。


「過去を消すためじゃなくて、これからのために持とうよ。……私が急に体調を崩したとき、すぐに凪さんに繋がるように。私のためだと思って、持って」


「……あんたのため、か」


その言葉に、凪の肩からすっと力が抜けた。


「分かった。使い方はあんたが教えろよ。俺、こういうの疎いんやから」


「ふふっ、任せて。まずは私の番号を一番上に登録するね。……あ、準備ができたら写真も撮らなきゃ。ちゃんと笑ってね」


「よせや、写真なんて恥ずかしい……」


不器用にしわを寄せる凪の横顔を、白石は愛おしそうに見つめていた。

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