第122話 【正論の刃と、紫の唇】
季節は夏に向かっていた。瀬戸内の強い陽光が海の蒼と交じり合い、波面を眩しく揺らす頃、その男は現れた。
凪が夜勤明けで施設のロビーへ降りていくと、潮風の匂う空間にそぐわない、パリッとした都会的な仕立てのシャツを着た男が、白石と向かい合っていた。
男の名は、相良健二。
白石が東京で救命士をしていた頃の元恋人であり、彼女の心臓の持病を知る医師だった。
「糸音、もう無理はやめろ。お前の体のことは僕が一番分かっているはずだ。……後遺症で心不全を起こしてから、まだリハビリを終えて間もないんだぞ」
相良の静かな声には、抑えきれない焦燥と、一切の反論を許さない正しさが宿っていた。
白石は真っ青な顔で立ち尽くし、震える指先でカウンターの縁を固く掴んでいる。
♢
相良が去ったその夜、白石はぽつりぽつりと、凪に過去を打ち明けた。
かつて心筋症を発症したこと。不整脈の発作に怯えながら厳しいリハビリに耐えてきたこと。
そして、毎朝の血圧や食事の塩分量までを「愛」として徹底的に管理され、自分の意志で息をすることすら許されなかった東京での日々。
その息苦しさから逃げるように、この島へ辿り着いたのだと。
凪はただ静かに白石の言葉に耳を傾け、冷たくなった彼女の手を包み込んだ。
どんな過去があろうと、この島で共に笑って生きていこうと、そう心に決めたばかりだった。
♢
だが、懸念は最悪の形で現実となった。
翌日の午後。静まり返ったリネン室の床で、積み上げられたシーツの脇に、唇を紫色に変色させて倒れている白石を凪が発見した。
「糸音さん! しっかりしろ!」
抱き起こした身体は驚くほど軽く、冷たかった。
♢
搬送先の、島の小さな診療所。
処置室の重い扉の前で、凪は相良と対峙していた。
「見たろう。これが現実だ。彼女の病気は、君のような素人が隣にいてどうにかなるものじゃない」
相良の眼光は冷たく、凪の胸を射抜いた。
「不整脈が急変を起こせば、この診療所の設備じゃ手遅れになる。
僕はすでに、東京の循環器専門医と連絡を取っているんだ。
彼女を僕に返してくれ。それが、彼女の命をつなぐ唯一の道だ」
相良の言葉は鋭い刃となって、凪の胸に突き刺さる。
かつて救助隊員として「救える命の優先順位」を最優先に叩き込まれてきた凪には、それがどれほどの正論か、痛いほど理解できた。
今の自分は、足も不自由なただの施設職員だ。命を救う高度な医療技術も、専門医につなぐ手立てすら持っていない。
痛む右足に重心をかけたまま、凪は深く拳を握りしめることしかできなかった。




