第121話 【みかん鯛みたいに】
2021年春。
瀬戸内の穏やかな日曜日の午後。凪と白石は宇和島港からフェリーに乗り、九島の海岸沿いを歩いていた。
遊歩道を少し進んだ先に、海へ突き出すように小さな食堂がポツンと佇んでいる。
風に揺れているのは、凪がずっと気にしていた「みかん鯛」ののぼりだった。
「ここや。東京におった時、同僚が『嫁の里帰りで食った鯛が一番の衝撃やった』って熱弁しとった場所」
凪は手元のメモと看板を見比べ、どこか誇らしげに声を弾ませた。
そんな凪の子供のような横顔を見て、白石も思わず口元を緩める。
運ばれてきた特産の「みかん鯛」の刺身を、二人は並んで口に運んだ。
噛みしめた瞬間、凪の眉が跳ねる。
「……ほんまや。後からほんのり、柑橘の風味が抜けていく。同僚が言っとった通りやわ」
「本当だ、すごく上品……。噛むほどにふわっと柑橘を感じるね」
白石が感心したように頷くと、凪は箸を置いて付け加えた。
「これな、みかんの皮混ぜた餌食わせて育てとるらしいわ。ずっとそれ食っとるうちに、身の風味まで変わっていくんやって」
それを聞くと、白石は少しだけ視線を泳がせ、テーブルの上のおしぼりを意味もなく丁寧に折り直した。
「……そっか。時間をかけて、身まで変わっていくんだ」
白石は小さく息を吐き、少し赤くなった頬を隠すように凪を見た。
「じゃあ……私たちも、それくらいゆっくり変わっていけたらいいよね」
ふいに放たれた言葉に、凪も一瞬固まり、慌てて手元の湯呑みをあおった。
「……そうやな。……ほんまに、そうなっていけたらええな」
♢
潮風が吹き抜ける帰り道。
「凪さん、足、大丈夫? 結構歩いたけど」
白石が自然と歩調を緩める。
「おう、これくらい何てことないわ。いいリハビリやと思えばな」
「あそこのベンチ、少し座ろっか」
二人で並んでベンチに腰を下ろし、養殖いかだが浮かぶ静かな海を見つめた。
しばらくして、白石がぽつりと問いかける。
「凪さんって、今でも東京のこと、思い出したりする?」
凪は波打ち際から目を切らず、ゆっくりと答えた。
「……まあな。たまにな。でも、あそこにおった時の自分は、もう別の人間みたいな気がするわ。今は、この瀬戸内の空気や潮の匂いの方があっとる気がする」
「そっか。……よかった。私も、あの街であなたに会えて、本当によかったと思ってるよ」




