第120話 【「これでよかとよ」という嘘】
結婚報道から数ヶ月後。
長崎の神之浦家の居間に、桜庭が座っていた。
「初めまして! 桜庭です。英理さんにはいつもお世話になってます。いやぁ、長崎っていい所ですね、飯も旨いし!」
桜庭は最高級の菓子折りをテーブルに広げ、隙のない笑顔で挨拶をした。
声のトーンは明るいが、美津子には彼がこの家を「国民的女優の実家」という珍しいスポットとして面白がっているような、薄っぺらな違和感しか残らなかった。
「そうですか。わざわざ遠くから、ありがとうございます」
美津子は穏やかに微笑みながら、娘の隣に並ぶ男を静かに観察していた。
桜庭の振る舞いは、かつて凪がこの居間で見せた、この家の空気に自然と溶け込むような不器用な優しさとはまったく異質だった。
「お母さん、桜庭くんはね、私の仕事を尊重してくれとるんよ。……私、この人と一緒なら、これからも頑張れる気がして」
美津子は、どこか自分に言い聞かせるような娘の言葉を聞き、胸を締め付けられる。
「……英理。あんたが選んだ人なら、お母さんは何も言わんよ」
美津子は桜庭を真っ直ぐに見据えて問いかけた。
「桜庭さん。……あんたは、この子が『女優』じゃなくなった時、ただの不器用な女の子に戻った時も、この子の隣におってくれますか?」
「当たり前ですよ! 英理さんって超有名ですし、一緒にいるだけで僕まで自慢できるっていうか。二人でトップスター同士、最強のカップルでいようねって話してるんです!」
無邪気で、けれど目の前の「神之浦英理」の肩書きにしか興味がないと透けて見える答え。
美津子はそれ以上、何も言わなかった。
その時、テーブルの上に置かれた桜庭のスマホが静かに震えた。
液晶に次々と浮かぶSNSの反応。
桜庭は慣れた手つきで端末を拾い上げると、画面をひと撫でして満足げに口元を緩めた。そのままお茶にも手をつけず、ポケットに放り込む。
「じゃあ僕、明日の朝から生放送があるんで、先に失礼しますね! 英理さんはゆっくりしていって。お母さん、また僕のSNSでも見てください!」
一人で忙しそうに立ち上がり、桜庭は満足そうに玄関を出て行った。
居間に残された豪奢な菓子折り。
美津子は、うつむく娘と、窓の外に見えるあの「坂道」を静かに交互に見やった。
(……英理。あんた、自分の『居場所』を、どこに置いてきてしまったとかね……)
♢
桜庭が去った後、居間には重苦しい静寂が落ちていた。
美津子は、冷めてしまったお茶を下げながら、膝を見つめたままの英理に静かに問いかけた。
「……英理。あんた、本当にあの子と一緒になるつもりね?」
「……うん。もう、そう決めたんよ。事務所も周りも、みんなそのつもりで動きよるし。……あの子と一緒にいれば明るいし、何も考えんで済むんよ。これでよかとよ、きっと」
「『これでよか』って、自分に嘘をついとるように聞こえるよ」
美津子の言葉に、英理の瞳からすっと光が消えた。そこにあったのは、疲れ切った一人の女性の迷いだけだった。
「……だってお母さん、私、もうひとりで歩き続けるの疲れたんよ。
誰かに必要とされとるって思えるだけで、今は救われるんよ。
桜庭くんは、ストレートに私を求めてくれる。……それが、この世界で生きていく私にとっては、一番わかりやすい幸せなんよ。
だから、私、あの子と結婚する。……もう、これ以上何も望まんって決めたと」
英理の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出す。
自分を納得させるためだけの言葉。
美津子は、泣きじゃくる娘の細くなった肩を見つめ、何も言わずにその背中をさすった。
「……そう。あんたがそう決めたんなら、もう止めんよ。……でもね、自分の心をごまかして手に入れたものは、いつかあんた自身を苦しめることになるかもしれん。……それだけは覚悟しときなさい」
「分かっとるよ、お母さん。でも、もう引き返せんとよ……」
英理は母の胸に顔をうずめ、声を押し殺して泣いた。
かつて駆けていったあの坂道の熱を、そっと手放すように。
彼女は静かに、自分自身の心に蓋をした。




