第117話 【「今日」を笑い合える誰かと】
瀬戸内の朝は、穏やかな波音と蝉の声で始まる。
昼下がり。凪は施設の縁側で、白石が差し出した冷たい麦茶を受け取った。
「凪さん、お疲れ様。……さっき、三号室のタエさんが言ってたんよ。『凪さんの手は、神様の手みたいに温かい』って」
凪は、火傷の痕が残った自分の掌を見つめ、自嘲気味に鼻で笑う。
「……神様の手ぇ? えらい大げさな。俺のは、ただの傷だらけの、不器用な手や」
「……その不器用な手が、誰かの命を繋いできたんでしょ。救急の現場でも、ここでも」
白石は、凪の飲み干したコップを受け取ると、ふとした口調で問いかけてきた。
「ねえ、凪さん。あなた、これから先、何かやってみたいこととか……夢とか、あるん?」
「……夢?」
凪は意外な言葉を投げかけられる。
「そんなもん、考えたことも無かったわ。……俺の人生は、ずっと『誰かの夢』を守るためのもんやったからな」
「……そう。……じゃあ、今は?」
白石は、凪の横顔をじっと見つめる。
「ここに来てから、何か変わった?」
凪は、庭で揺れる向日葵を見つめ、しばらく沈黙する。
「……最近、思うんよ。……ここで、あんたやタエさんたちと過ごしとると、自分もいつか、あんな風に穏やかに笑うて終わりたいなって。
……大げさな奇跡やなくて、ただ『今日はええ風が吹いたな』って言い合える誰かが隣におって……。それが、今の俺の、精一杯の夢かもしれん」
白石は、その言葉を聞いて一瞬視線を落とした。
「……そう。……それなら、その誰か、私じゃダメかしら」
「……え?」
「私ね、救命士で東京におった頃、いつも怖かったんよ。傷ついた人を救えんかった夜が。
……でも、あなたと会って、一緒に誰かの日々に寄り添っとると、自分の傷も少しずつ塞がっていくような気がしたんよ。
凪さん。私はあなたの過去は知らん。
でも、これから先は……あなたの隣にいたいと思っとる」
凪は驚き、白石を見つめた。
白石は、ただまっすぐ凪を見つめていた。
「……俺みたいな、ボロボロの男でええんか」
「……ボロボロだから、いいんじゃない。二人で、継ぎ接ぎしながら歩いていけばええんよ」
凪は、自分の無骨な手に重なった彼女の温もりを、今度は拒まずに受け入れる。
「……おおきに、白石さん。……俺も、あんたの隣なら、新しい風が見える気がするわ」
♢
その日の夕刊の芸能欄には、英理が主演する新しい映画の広告が、輝きを持って掲載されていた。
凪は、その広告を包み紙にして、入所者のための野菜を静かに包み渡した。




