第116話 【静かなる日常の始まり】
2020年、春。瀬戸内海の穏やかな海風が吹き抜ける高台に、その施設はあった。
凪が、白石の紹介でこの高齢者施設に身を置いてから、半年が過ぎていた。
かつてのオレンジ色の救助服は、今は動きやすい作業着に変わっている。
「凪さん、車椅子のタイヤ、また空気抜けたみたいなんよ」
「おう、今やるわ。ちょっと待っといてな」
凪の口からは、自然と本来の関西弁が漏れる。
施設内の清掃や雑務、お年寄りたちの話相手、そして壊れた備品の修理。
特別な資格がなくてもできるひとつひとつの手伝いの中で見せる、凪の無骨で、けれど優しい手つきは、入所者たちの間で評判だった。
仕事の後、凪はよく海岸の防波堤に座り、沈む夕日を眺めていた。
ポケットには、もうスマホもない。
テレビも、あえて見ないようにしていた。
(……あいつ、今頃どうしとるんかな)
ふとした瞬間に、あの眩いライトの中にいた英理の残像がよぎる。
けれど、自分は自分の場所で、誰かのために生きている。
彼女もまた、彼女の選んだ新しい光の中で、幸せに笑っているはずだ。
♢
「凪さん、お疲れ様。今日も早かったんね」
背後から声をかけたのは、今から一ヶ月前に、この施設の事務スタッフとして戻ってきていた白石糸音。
彼女は凪に冷たい麦茶を手渡し、隣に座る。
「……ここ、どう? 少しは、あなたの『痛み』、和らいだ?」
「……おう。おかげさまで。……守るって、こういうことやったんやな。大げさなことやなくて、ただ隣におることやったんや」
二人は並んで、夕闇に染まる瀬戸内海を眺めていた。
♢
ある日、施設での勤務を終えた帰り道。凪と白石は、夕暮れに染まる防波堤に腰を下ろしていた。
「ねえ、凪さん。さっき三号室のタエさんから聞いたんよ。凪さん、こっそりおやつ、あげたでしょ」
白石が、悪戯っぽく凪の顔を覗き込む。
凪はバツが悪そうになり視線が泳ぐ。
「……あ、あれは……タエさんが『口が寂しい』言うて、うるさかったんや。一粒だけやで、飴ちゃん」
「一粒やないでしょ、二粒だったって言っとったよ。あんなに厳しいレスキューだった人が、おばあちゃんには甘いんやから」
「……やかましいわ。あんたこそ、今日のお昼、苦手なピーマン残しとったやろ。見とったんやで」
「えっ、見とったん? 恥ずかしい……。あれは、今日の味付けがちょっとだけ合わなかっただけで……」
白石が赤くなって顔を伏せると、凪の口元から、自然と小さな笑みがこぼれた。
「……凪さん、また笑った」
「……笑うてへんわ」
「嘘。今、すごく優しい顔しとった。……ねえ、凪さん。明日のお休み、島まで美味しいお魚、食べに行かん? 私のおごりで」
凪は、隣で笑う白石の横顔を見つめた。
「……おう。ええよ。あんたの行きたいとこなら、どこでも連れてったるわ」
「ほんと? 遠いよ、瀬戸大橋の向こう側まで」
「……レスキュー隊員舐めたらあかんわ。体力だけなら、まだあんたよりはあるで」




