第115話【瀬戸内からの風】
二人はリハビリの合間に少しずつ言葉を交わすようになっていた。
「今日は、どこまで歩けました?」
「……パラレルバーを往復するのが限界でしたわ。足が笑うてもうて」
「ふふ、焦らんでもええよ。昨日は片道だけだったじゃないですか」
白石は自分のリハビリの手を休め、苦笑いする凪に穏やかな笑みを向ける。
しかし、どれほどリハビリを重ねても、突きつけられるのは残酷な身体の現実だった。
痺れの残る脚。少し強く踏み込むだけで痛みが走る。
鏡に映る痩せた身体を見るたび、もう人命救助の最前線には戻れないのだと思い知らされた。
「……こんな身体やと、もう救助服着ることも叶わんな」
木陰のベンチに座っていた凪はポツリと呟く。
「……レスキュー隊員として生きられへん俺に、もう何が残っとるんかわからんのや。命張って誰かを守ることもできんし、守るべき相手も、もうおらん……」
そんな凪を、白石は否定することなく、静かに見つめていた。
♢
そして、退院が見えてきたある日……
「……俺はもう、誰かを守る資格なんか無いんや。……消防庁辞めて、どっか遠くへ行こう思とるねん」
中庭のベンチでそう漏らした凪に、白石は静かに一通のパンフレットを差し出してきた。
「……なら、瀬戸内にある高齢者施設へ行ってみん? 私の知人が運営しとるところなんだけど、お年寄りたちの暮らしを支える手が足りんくて困っとるんよ」
「……施設? でも、俺は介護の資格も免許も何にも持ってへんし、こんな足や……」
難色を示す凪に、白石は柔らかく首を振る。
「資格なんて、最初は何もいらんよ。いきなり難しい介助をするわけじゃないんやから。
施設のお掃除とか、お食事の準備、ただお年寄りのお話相手になるとか……そういう簡単なお手伝いからで十分なんよ。
今の凪さんにできることから、少しずつやればええんやから」
凪が戸惑いながら受け取ったパンフレットには、穏やかで蒼い海に囲まれた、お年寄りたちがゆったりと暮らす小さな施設の写真だった。
「今まで誰かを守ることばっかり考えてきたんでしょう。だったら、これからは違う形で誰かのそばにいるのも、悪くないんじゃないですか」
その言葉は、暗闇の中で立ち尽くしていた凪の背中を、温かく押してくれた。
数日後、凪は決意を固め、消防庁へ辞職願を提出した。
それは、レスキュー隊員としての誇りと未練を静かに手放すための一歩だった。
(……もう、ええんや)
凪は、英理を守ることだけを自分の役目にするのではなく、新しい場所で、自分にできることを探していくことを決めた。




