第113話 【静寂を破る声】
2018年秋。
都郊外の療養施設に、一年半の沈黙を破る微かな音が響いた。
ベッドに横たわる男。
「……あ……」
掠れた、小さな声。
その瞬間、傍らでガーゼを浸していた佐伯の手がピタリと止まった。
(……今、声が……?)
まさか、と自分を打ち消そうとした矢先、ベッドのシーツが小さく擦れ、凪の瞼がかすかに動いた。
そして、ずっと閉ざされていたその瞳が、ゆっくりと開かれた。
「……っ!?」
佐伯は息を呑み、手に持っていたトレイを床に落とす。
「な……凪……!? 凪くん、嘘でしょ……!? 分かる!? 私が見えるの!?」
救急救命士として数々の死線を見てきたはずの彼女の声が、震える。
凪は全身を走る鈍い痛みに顔を歪める。
凪の脳裏に浮かんだのは、あの爆発の熱気と、必死で抱きしめた少女の幼い感触だった。
「……女の……子……は……」
それが、一年半という沈黙の末に、彼が絞り出した最初の言葉だった。
佐伯は溢れ出そうになる涙を必死で堪え、震える手で凪の肩を握りしめた。
「……無事よ! 元気に……元気に小学校へ通っとるわ! あんたが、命懸けで守り抜いたんじゃない……!」
佐伯の叫ぶような声を聞き、凪は深く安堵したように、再びゆっくりと瞼を閉じた。
「……英理……」
記憶の底から浮かび上がってきたのは、最後に彼女へ贈ったあのネックレスのこと。
そして、受け取るはずだった、届くはずだった彼女からの「言葉」。
「……佐伯さん。……俺、どれくらい寝とった?」
「……一年半よ」
凪の意識は戻った。
けれど、彼の手元にはもう、彼女と繋がる唯一のスマホも、彼女の連絡先も残されていなかった。
♢
2019年。
仕事に明け暮れ、凪からの「既読」を待ち続けて2年――。
英理の心は、ついに限界を迎えていた。
ネックレスに触れるたび、彼女を襲うのは、「私はもう、忘れられたのではないか」という耐えがたい孤独だった。
そんな折、ドラマでの共演をきっかけに距離を縮めたのは、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気若手アイドル、桜庭だった。
彼は、年下らしい無邪気さとストレートな好意で、英理に接してきた。
「英理さん、そんなに悲しい顔しないで。僕がずっと、笑わせてあげますから」
暗闇の中で独り、動かないスマホを見つめ続ける日々に疲れ果てていた英理にとって、彼の存在は、何も考えずに前へ進むためのきっかけになった。
誰かに必要とされているという実感が、空虚だった心を少しずつ満たしていく。
(……凪くん。もう、いいんよね。……うちは、もう一回、誰かを信じてみてもええんよね)
自分に言い聞かせるように、英理は桜庭との交際を始めた。
♢
一方、療養施設で過酷なリハビリに励む凪。
彼は、和也や母・美津子が自分を「存在しない者」として遠ざけようとしている本当の理由を、面会に訪れた和也の口から直接聞かされていた。
「……英理は今、年下のアイドルと仲良くやっとる。……もう、お前の入る隙間なんて、どこにもないぞ」
和也のついた、妹の未来と凪の傷を守るための残酷な嘘。
それを聞いた凪は、取り乱すことも、責めることもなく、ただ静かに笑った。
「……そうか。……なら、ええんや。あいつも、ようやく自分の幸せを見つけたんやな」
自分が眠っている間に、彼女はもう、自分のいない人生を歩き始めていた。




