第112話 【順調という名の孤独】
2016年のあの日、凪が炎の中に消えてから……。
英理の時間だけが、あの日から止まったままだった。
それでも、仕事だけは目まぐるしく続いていた。
英理はこの一年、まるで自分を追い詰めるかのように現場に立ち続ける。
主演作は次々とヒットを重ね、国民的女優としての地位は不動のものとなっていた。
(一年。もう、一年も経ったんとね)
楽屋の鏡の前、英理は自身の黒髪をそっと撫でる。
既読がつかなかった最後のメッセージ。
その後、凪のスマホは解約されたのか、「現在使われておりません」という無機質なアナウンスが流れるだけ。
半年前、どうしても耐えかねた英理は、兄・和也に、すがりつくように問い詰めていた。
♢
「お兄ちゃん、ほんまに凪くんのこと、何も知らんの? スマホも繋がらんし……! お願い、何か隠しとんなら教えて!」
「……英理。もうあいつのことは、探さんでやってくれ」
「なんで……!? お兄ちゃんにとって、凪くんは一番の親友じゃろ? なんでそんな冷たいこと言えるんよ!」
「冷たいんやない!」
その声はどこか掠れ、震えていた。
「……あいつはもう、自分の決めた道を行っとるだけじゃ。現場で忙しいんかもしれんし、新しい人生を歩んどるのかもしれん。それを……今の華やかな世界におるお前が追いかけ回して、あいつの邪魔をしてどうするんや」
「邪魔なんて……!」
「住む世界が違うなったんじゃ」
和也は冷たく突き放す。
「あいつの人生には、もうお前はおらん。……頼むから、あいつを解放してやってくれ」
♢
「……どこかで人を助けとる」
「忙しくて連絡ができんだけ」
英理は毎日、服の下のネックレスにそっと触れていた。
それだけが、今日も撮影に向かうための支えだった。
♢
一方、都郊外の静寂に包まれた療養施設。
そこには、一年前の火災現場で大きな負傷を負い、未だに意識が戻らない「身元不明の男」がいた。
消防署からの公的な支援は続いていた。
傍らに付き添う救急救命士の佐伯は、この一年、非番のたびに彼を訪ね続けていた。
「……もう一年よ。あんたが守った女の子は、もうすぐ小学校に上がるって。……あんただけよ、ずっとここで眠ったままなのは」
♢
それから半年が過ぎ。
過密なスケジュールの合間を縫って、英理は久しぶりに長崎の実家へと帰省していた。
「……英理、あんた、また痩せたんじゃないん?」
母・美津子が心配そうに声をかけるが、英理は、
「仕事が充実しとるけぇね」
と、テレビで見せるのと同じ完璧な笑顔で返す。
凪の本当の現状をすべて知っている美津子は、そんな英理の姿を直視できなかった。
和也も何も言わず、黙って庭の掃除を続けていた。
その日の午後、英理は地元の喫茶店で親友のナオと再会した。
ナオは、国民的女優となった親友に対しても、昔と変わらない遠慮のなさで向き合う。
「……英理、あんたもうええ加減にしんさい。その顔、鏡で見とるん? 全然笑えてないよ」
ナオの直球の言葉に、英理は持っていたコーヒーカップを微かに揺らしながら、
「……え、そうかな。最近、主演作も決まったし、順調なんよ」
「仕事の話をしとるんじゃないんよ! 凪くんのことよ。……あんた、一回もあいつの話をせんようになった。まるで、自分から忘れようとしとるみたいに」
英理は静かに視線を落とす。
ナオには、棟方との醜い破局も、凪と連絡が取れなくなったことも、すべて打ち明けていた。
「……忘れてないよ。でも、和也が『もう探すな』って。あいつはあいつの道で頑張っとるんじゃから、邪魔しちゃいけんって……。あの日、既読にならんかったのも、きっとそういうことなんよ。凪は、もう私に愛想を尽かしたんよ。……もう、私を必要としてないんよ」
「仕事に明け暮れとる時だけは、何も考えんで済むんよ。凪がどこかで誰かを助けとるって、そう思うだけでええんよ。……今は、これが私の『順調』なんよ」
ナオはそれ以上何も言えず、ただ、親友の指先を悲しそうに見つめることしかできなかった。
英理は東京へ戻り、また仕事の日々へ戻っていった。
凪は、誰にも知られないまま、眠り続けていた。




