第108話 【君が笑えない理由】
病院の集中治療室(ICU)。
凪の傍らには救急救命士の佐伯宵が座っていた。
彼女はあの日、炎の中から助け出された凪の処置を最初に行った人間だった。
あの日、炎の中から助け出された凪の姿が、今も佐伯の脳裏に焼き付いていた。
「……あんた、あの子の親御さんからどれだけ感謝されとるか、分かっとるん?」
佐伯は、熱傷を負い包帯に巻かれた凪の腕を、清潔なガーゼでそっと拭った。
消防署の仲間たちは、身内の分からない彼の身辺整理に奔走していたが、結局、緊急連絡先一つ見つけることができなかった。
凪が大切にしていたはずのスマホは、熱で無残に溶け、今はただの黒い塊としてトレイに置かれている。
……佐伯の脳裏に、かつて署の仲間たちと囲んだ居酒屋の、賑やかな光景が蘇る。
「……地下アイドル、ねぇ……」
過去の記憶から引き戻された佐伯は、人工呼吸器の無機質な呼吸音を聞きながら、ぽつりと呟いた。
あの時、周りを巻き込んであんなにも必死に嘘をついてまで、隠したかったもの。
(嘘が下手くそなのよ、あんたは……)
「……あんたが守りたかったんは、あの女の子だけじゃないんでしょ。……誰を思って、そんなにボロボロになるまで戦ってきたん?」
深夜、交代の看護師が来るまで、佐伯は一言も発さなくなった凪の傍らに居続けた。
♢
一方、英理の現場は、皮肉なほどに過密を極めていた。
主演映画のクランクアップ直前の過酷な撮影、次期ドラマの制作発表、そしてファッション誌の表紙撮影。
英理の時間は秒刻みで管理され、周囲には常に十人以上のスタッフと、彼女のプライベートを狙うカメラの視線が張り付く。
「英理さん、次、衣装チェンジ十五分でお願いします!」
「笑顔、もう少しだけ柔らかく。そう、最高です!」
スポットライトを浴び、カメラに向かって完璧な微笑みを向ける英理。
一度も「既読」がつかないスマホ。
ニュースで流れた、重体隊員の影。
(……助けて、凪くん。うち、もう笑えんよ)
撮影の合間、メイク直しの数分間に、英理は鏡に映る自分を静かに睨みつける。
服の下、胸元で冷たく光るネックレス。
棟方からは、
『昨夜はごめん、撮影長引いたんだってね。今夜、埋め合わせさせてよ』
と華やかな誘いのメールが届く。
英理は、そのメッセージを開いたまま、しばらく画面を見つめていた。
♢
夜。マンションへ戻る車中。
窓の外を街灯が流れていく。
「……凪くん、どこにおるん。……うちを、一人にせんで」
既読のつかない画面を強く握りしめ、誰にも見せることのできない涙を流し続けていた。




