第106話 【絶対に手放さない】
深夜の街に鳴り響くサイレン。
黒煙と猛烈な熱気が吹き出すマンションの前に、救助工作車と消防車が滑り込んだ。
「全隊現着! 各隊、ただちに水利を確保し消火に取りかかれ!」
指揮隊長の指示が無線を飛び交う。
現場は黒煙が夜空を覆い、窓ガラスが弾け飛ぶ乾いた音と爆発音が響き渡っていた。
赤色灯が激しく点滅する中、オレンジ色の救助服を纏った隊長が凪たちに鋭い視線を向ける。
「二階から三階にかけて火勢拡大中! 三階奥の部屋に逃げ遅れの報告あり! 可燃物が多く、バックドラフトの危険性が高い! 救助隊、進入経路を確保し速やかに突入!」
「了解!」
レスキュー隊員たちが一斉に面体を装着し、空気ボンベのバルブを開く。シュー、という呼吸音が面体の中に満ちていく。
その時だった。
「離して! お願い、離してぇっ! あの子が……あの子がまだ三階におるんです! 誰か、誰か助けてえぇっ!!」
隊員や警察官に取り押さえられながら、正気を失ったように叫ぶ女性の姿があった。
髪を振り乱し、建物を指さして泣き叫ぶ母親。
その悲痛な叫びが、面体の奥で凪の胸に突き刺さった。
(……助ける。絶対に助け出す)
「凪、行くぞ! 進入する!」
「了解!」
「三階、取り残された要救助者一名! 救助に向かう!」
♢
炎の壁を突き抜け、凪たちレスキュー隊と消防隊は、マンション三階へと到達していた。
熱風は防火服越しにも容赦なく襲い、視界を覆う黒煙は濃くなっている。
「303号室、ここだ!」
先行した隊員が指差す先、歪みかけた303号室の扉があった。凪は腰のハリガンツールを構え、扉の隙間に突き立てる。
「せーのっ!」
掛け声とともに扉をこじ開けようと力を込めた、その時だった。
『全隊へ! 繰り返す、全隊へ! 3階の構造強度に異常あり! 爆発的なフラッシュオーバーの予兆を確認! これ以上は無理だ、即座に退避せよ! 303号室前、至急退避しろ!』
無線の向こうで、指揮官の切迫した声が響いた。同時に、足元の床が唸りを上げ、天井の梁が不気味な軋み音を立てて大きく傾く。
「くそっ、あと少しなのに!」
扉は半分までこじ開けられ、中から熱い火炎が漏れ出している。だが、隊長が凪の肩を掴み、強引に引き戻した。
「凪! 聞こえんのか! 退避だ! このままじゃ全員が焼け死ぬぞ!」
炎が廊下を飲み込み、退路さえも奪おうとする。凪は砕けかけた扉の隙間から、内部の闇を凝視した。
そこに、確かに「誰か」がいる。
(見捨てられるかよ……!)
「凪ッ!?」
凪は隊長の押し出す手を振り切った。
命令違反。独断行動。
退避する隊員たちの流れに逆らい、炎と黒煙が猛威を振るう303号室の扉へ向かって、そのまま身体を投げ入れた。
「バカ野郎、やめろッ!!」
背後で隊長の絶叫が轟音にかき消される。
「……っ!」
部屋の中は、息をすることさえ困難な濃い煙と熱風が充満していた。
視界はほぼゼロ。膝をつき、手探りで床を這う。
(どこだ……どこにおる!)
その時、部屋の隅、崩れ落ちたクローゼットの影から小さなすすり泣きが聞こえた。
「……うぅ、……っ……」
「……見つけた……!」
そこには、煤にまみれ、恐怖で顔を歪ませて震える女の子がうずくまっていた。
「大丈夫や。もう怖くないぞ。助けに来た」
凪は落ち着かせるように声をかけると、女の子の小さな身体を抱きかかえた。
容赦なく襲い掛かる熱風と火の粉から守るため、自らの防火衣を脱ぎ、女の子の頭からすっぽりと優しく包み込む。
その瞬間、胸のポケットからスマートフォンが滑り落ちた。
微かに震える小さな温もりを感じたその瞬間、あの坂道で自分を信じてくれた、高校生の英理の面影が鮮明に浮かび上がってきた。
(……大丈夫や。今度は、絶対に離さへん)
凪は少女を片腕でしっかりと抱きかかえ直すと、崩れ落ちる部屋を飛び出した。
「う……あぁっ……!」
防火衣を脱いだ上半身に、灼熱の空気が直接襲いかかる。
一息吸い込むたびに、喉が焼けるように熱い。激しい煙が目と鼻を刺し、意識がもうろうとなる。
それでも、足だけは止めない。
燃え盛る天井が剥がれ落ち、火の粉が降り注ぐ廊下を駆け抜ける。階段を一段飛ばしで一気に駆け下りた。少女を庇う腕だけは決してゆるめない。
(ハッ……ハッ……あと少し……あと少しや……!)
苦痛に耐えながら二階を突破し、ついに一階のエントランスへと辿り着いた。
煙の向こう側、割れたガラス扉の先には、赤色灯の眩しい光と数名の人影が見える。
「助かった……出られる……!」
その時、猛烈な煙の中で視界が狭まっていく。
(くそ……意識が……っ! 持たない……)
その瞬間だった。
一瞬、周囲の音がフッと消え、空気の流れが異様に巻き戻る感覚――バックドラフト。
――ドドンッ!!!
爆音とともに、高温の爆風と衝撃が背中に襲いかかった。
「がはっ……!」
凪の身体は、抱きしめた少女ごと前方へと強く弾き飛ばされた。
視界が歪み、世界がスローモーションのようにゆっくりと舞う。
それでも、腕の中にある小さなぬくもりだけは、意識が消え去るその瞬間まで絶対に離さなかった。
(英理……俺は、俺の場所で、ちゃんとやれとるか)
衝撃が背中を突き抜けた瞬間、頭の中に最後によぎったのは、昨夜投函した一粒のネックレスのことでも、自分自身の命のことでもなかった。
ただ、遠いどこかで誰かに愛され、眩しいほどの光の中で輝いているはずの、あの少女の笑顔。
外へ吹き飛ばされ、冷たいアスファルトへと叩きつけられた。
凪は倒れ込んだ体勢のまま、己の肉体を壁にして少女をしっかりと抱きかかえ、衝撃から守り抜いていた。
(……よかった。……守れたな……)
少女のか細い泣き声と、駆け寄ってくる隊員たちの叫び声が、響くように遠く聞こえる。
「凪! 凪ッ! しっかりしろ!!」
「救急隊! 急げ、搬送だ!!」
激しいサイレンの音。
凪の世界は深い闇の中へと沈んでいった。
燃えさかる部屋に残されたスマートフォンが、彼女からのメッセージを灯すことはもうなかった。
―第二章・完。
(第三章「しまなみ編」へ続く)




