第105話 【つかない既読と、黒煙の空】
2016年12月23日。
英理の誕生日。
港区の高級マンションの一室で、英理は翌朝からの映画撮影に備え、静かに台本と向き合っていた。
隣のソファには、ゆったりと腰をかけ、ワイングラスを傾ける棟方の姿。
「お誕生日おめでとう、英理。……本当は今夜、夜景の見える特別なレストランでお祝いしたかったんだけどね」
棟方は微笑みを浮かべ、リビングのテーブルの上に並べられた、高価なブランドのジュエリーボックスに目をやる。
「ごめんなさい。明日は大事なシーンの撮影だから……。でも、こんなに素敵なプレゼントまでいただいて、本当に感謝してるわ」
「いいんだよ。君のそういうプロ意識が高いところも愛しているからね。僕たちの交際報道も世間では大騒ぎだし、今日の君はまさに日本中で一番輝いている主役だ」
棟方の言葉はどこまでも甘く、非の打ち所がないほど完璧だ。
「ほら、また事務所から大量の贈り物が届いたよ。後で一緒に開けようか」
その時、インターホンが鳴り、コンシェルジュが「お預かりしていたお届け物です」と、一つの小さな小包を運び込んできた。
「……何かな、これだけ個人名で届いてるけど」
棟方が興味深そうにその包みを手に取った。
差出人の欄には名前がなく、ただ『長崎の友人より』とだけ記されている。
棟方の隣で、英理は小さく息を呑み、震える手でその箱を開けた。
中から現れたのは、決して派手ではない、けれど凛とした輝きを放つ一粒のネックレス。
そして、不器用な字で書かれた一枚のカード。
『誕生日おめでとう。俺も、俺の場所で人を助けるために生きることにした。お前がどこにおっても、俺だけは、お前の味方や。無理すんな。』
棟方がそのカードを上から覗き込み、少し鼻で笑う。
「……随分と古風なエールだね。地元の同級生かな? まあ、こういう純粋で泥臭いのも、たまにはいいんじゃないかな。ん……英理?」
棟方は、隣に座る英理の異変に気づき、言葉を失う。
英理の目からは、大粒の涙が次から次へと溢れ落ち、広げていた台本の上に大きな染みを作っていた。
(……凪くん。届いたよ。……私も、もう逃げんよ)
棟方の困惑した視線を余所に、英理はそのネックレスを愛おしそうにぎゅっと握りしめた。
高層マンションの窓の向こう、東京の空の下のどこかで、凪もまた、誰かの命を守るために立ち上がっている。
♢
夜。棟方がバスルームへ向かった隙に、英理は震える指先でスマホを操作した。
画面に表示されているのは、あの
(喫茶店に来れる?)別れの日以来、一度も動くことのなかった凪とのトーク画面。
英理は、さっき届いたネックレスの写真を一枚撮り、短い、けれど彼女の本当の言葉を打ち込んだ。
『凪くん、ネックレス届いたよ。バリ綺麗。……ありがとう。自分の場所で頑張るって言葉、本当に、本当に嬉しかった。……私も、凪くんに恥ずかしくないように、明日からまた頑張るね。』
送信。
画面には、自分が送った吹き出しがポツンと浮かぶ。
英理は画面を見つめたまま、彼からの「既読」がつくのを待った。
一分、五分、十分……。けれど、『既読』の文字がつくことはなかった。
(……凪くん?)
かつて、どんなに忙しくても、どんなに不器用な言葉でも、必ずすぐに反応してくれた彼。
♢
同じ時刻。都心で発生した大規模なマンションビル火災の現場。
オレンジ色の救助服を纏った凪は、酸素ボンベを背負い、黒煙が渦巻く建物の中へと突入していた。
「三階、取り残された要救助者一名! 救助に向かう!」




